スタンド・バイ・ミー・エンジェル

終話 天使
 スカイゲートRが、ヒミコを乗せて暗闇の向こうに消えた。
 今宵は、停止した列車の最後尾に一人残された。
 ライトを浴びたため、再び夜目が効かなくなっている。
 今宵は懐中電灯のスイッチを入れた。
 下村が「せめてこれを」と渡していってくれたのだ。
 地下鉄構内が、ぼんやりと照らし出される。
 救助を待って、ここに残るべきだろうか? スカイゲートが戻ってくるかどうかは分からない。
 救助隊も、二次災害を恐れて投入できない状態だという。
 懐中電灯があれば、足元を瓦礫を避けて、ホームまで歩けるかもしれない。
 天井を照らしてみる。石組みはまだ壊れてきそうにはなかった。
 今宵に悩んでいるヒマはなかった。
 突然、車両の前方が明るくなったかと思うと、みるみる炎が湧き上がったのだ。
 喉を刺す黒い煙が、今宵にまとわりついてくる。
 今宵は線路に飛び降りると、おぼつかぬ足取りで駆け出した。
 後ろを振り返る。車両はあっという間に炎に包まれていた。それとても、黒煙に遮れ、おぼろげにしか見えない。
 電気系統から引火したに違いない。
 炎は車両で止まったが、黒煙は吐き出され続けている。
 今宵は、煙から逃げるように、再び駆け出した。
 風が流れていない分、煙の速度は遅い。歩きでもしない限り、煙に追いつかれることはない。最寄りのホームには、先に今宵が着ける。
 そう安堵したとき、ふたたびクッキーを割ったような、乾いた音が今宵の鼓膜を叩いた。
 すでに一度聞いた警戒音。脳が危険信号を送る前に、体が急停止した。それが今宵の命を救った。
 突如、前方の天井コンクリートが崩壊した。耳をつんざく轟音と共に、大量の瓦礫と土砂が落ちてくる。
 風圧で今宵は吹き飛ばされ、人形のように後方へ二転、三転した。
 線路上に這いつくばった今宵は、凄まじい土煙を吸い込まぬよう、袖口で喉を抑え、呼吸をガマンした。
 崩落は局所的なものだったか、つづいて全体が壊れてくることはなかった。それとても、いつまで持つものか知れたものではなかったが。
 土煙が立ち込める中、今宵は立ち上がった。懐中電灯で先を照らす。
 前方は、土砂で完全に塞がれていた。
 後ろからは、火災の黒煙が迫ってきている。
 今宵は初めて、死が自分の背中に張り付いていることを実感した。
 ヒミコを助けたことに、少しの後悔もない。
 ヒミコが自分と同じ目に遭っていることを想像すれば、今のほうがずっといい。
 自分以外の人間が、自分より大切だと思える。
 初めての感覚だった。
 これが親というものかもしれないな、と思い、今宵は思わず笑みを浮かべた。物心つく前に両親が死んでしまい、政治一辺倒の厳しい祖父に育てられた今宵には、これまで実感したことのないものだった。
 ライトに照らしだられた壁面に、鈍く光るものが反射した。
 慌ててそちらに駆け寄る。
 車のハンドルのような取っ手のついた、金属製の扉だった。プレートには『作業用点検口』とある。
 黒煙に追われ、ホームのみを目指していたため見逃していたのだ。
 助かった。
 今宵はハンドルに指をかけた。そして、悲鳴をあげて飛びすさった。
 ハンドルは、直接炎に触れたかのように熱い。
 やや遅れて指先に、刺すような火傷の痛みが襲ってくる。
 金属製の扉に、フレームを通じて火事の熱が伝わってきていた。
 今宵は上着を脱ぎ、それをハンドルにかぶせた。思い切り回す。しかし、ビクともしない。
 上着にもすぐ熱が伝わり、持っていられなくなる。あるいは最初から今宵の力では、扉は開かないのかもしれない。
 鍵がかかっている可能性もある。
 別の扉を探すか?
 そう考えた瞬間、どこか空気が通ったのか、火災の黒煙が滝のごとく今宵に襲いかかってきた。
 考える間もなかった。
 今宵は黒煙を思い切り吸い込み、意識を失った。
 意識を失う寸前、脳裏に浮かんだのは、イタリアンレストランで、行儀悪くパスタをすするヒミコの満足そうな笑顔だった。


 コツコツと、固い床を叩く足音が聞こえる。
 体は宙に浮いているようだ。
 自分の足は少しも動かしていないのに、体は前に前にと進んでいく。
 目の前は真っ白でなにも見えない。
 体が上昇を開始した。
 自分は、天国への階段を登っているのか。
 あるいは、絞首刑へ向かう十三階段か。
 暖かい。
 お腹に湯たんぽが当てられているよう暖かさだ。
 そこで今宵は、意識を取り戻した。
 目を開く。周囲は変わらず暗い。
 天国ではない。かび臭いような、冷えた匂い。地下鉄構内のようだ。
 喉や目を刺す煙は消えている。
 自分は生きているようだ。しかし、そのわりには、歩いていないのに、体が前に進むのは、意識を取り戻しても変わらない。
 今宵は、自分が背負われているのを知った。
 小さいが、ガッシリした背中。
 そこから、暖かさが伝わってきた。
 両足に手が回され、落ちないようにしっかりと支えられている。
「ア、アナタ……」
 風浪寓人だった。風浪寓人が自分の背負って、地下鉄構内を歩いていたのだ。
「よかった、気が付いたかい」
 寓人は足を止めることなく、首をよじって今宵に声をかけた。
「ど、どうして……、いえ、アナタが、助けてくれたの?」
「ああ」
 寓人が照れくさそうに答えた。
「品川で待ってたら、地下鉄内で火災発生のアナウンスがあってね。心配してたら、見たこともないスゴイ乗り物から、ヒミコが飛び出して来るじゃないか。それで、君の場所の聞いたから、出入り口を封鎖してる機動隊の目を盗んで、潜り込んできたんだ」
 今宵は、寓人の体が小刻みに震えていることに気が付いた。自分の体が重すぎるせいかと思った。
 背の高い自分を背負っているため、寓人が時折り背負い直さないと、足先を引きずりそうになるのだ。
 今宵は寓人の背中を降りようとした。しかし、体にまったく力が入らない。
「まだ無理だよ。大丈夫、ボクは力はあるから、おとなしく背負われてて。ここはもう上の地下鉄で、危険はない。一番危なかったのは、古くてメンテナンスもいい加減だったもぐらラインのようだよ」
 平静を装ってはいるが、寓人の声は震え、額には脂汗が浮いている。今宵は思い出した。寓人は、施設での虐待から、暗所、閉所恐怖症であることを。
 疲れだけではない。寓人は、恐怖にじっと耐えているのだ。
 自分の足を支える寓人の手の平も、異様に熱い。大火傷覚悟で、高熱の扉を内側から開いたに違いなかった。
 今宵は、閉じた瞳から涙がとめどなく流れてきた。それが寓人の首筋を濡らしたが、止めることができなかった。
「どうして、私を……。ヒミコちゃんをアナタから取ろうとしたのに。あんなヒドイこと言ったのに……」
「君は何も悪くない。君の言うとおりさ。ボクは、社会から逃げ出している口実にヒミコをつかっていた」
 寓人はよっこらしょと今宵を背負い直すと、つづけた。
「ボクが間違ってた。だから、今日、病院を出てすぐ職業紹介所に行ったんだ。ガラス工場の働き口を見つけてきた。週六日勤務で、週給二万円。明日から、働くよ」
 今宵は、寓人の首筋に顔を埋めた。
 やがて、前方にホームが見えてきた。ホームの下に辿り着くと、今宵は寓人に押し上げられた。
 続いて寓人がよじ登ってくる。
「ふう、ここまで来れば安全だ。上じゃ大変な騒動になってる」
 寓人は煤だらけの上着ポケットから、ハンカチを取り出した。今宵の顔を拭いてくれる。
 ハンカチが真っ黒になる。自分が今どんなすごい有り様なのかと、あらためて実感した。
「地下鉄の事故はヒドイのかしら?」
 寓人は首を横に振った。
「特にひどかったもぐらラインでも、死人は出てないらしい。大変な騒ぎってのは、君のことさ。君、カードで首相を怒鳴りつけたろ?」
 今宵はコクンと頷いた。
「あれ、緊急事態だから電波オープンになってたんで、マスコミに拾われたんだ。で、君が首相を怒鳴りつける映像が、全国ネットで流れちゃってたからね」
「まあ!」
 今宵は思わず手の平を口にあてた。
「私、そんなこと全然、いえ、少しは覚えてるんだけど……、したかしら?」
 寓人はハンカチの動きと止め、しばし俯いた。しかしすぐ堪えきれなくなった。
 寓人は仰向けになって、お腹を抱えながら大笑いした。
 今宵もそんな寓人の様子を見て、つられて笑い出す。。
 二人の大笑いが、無人の地下鉄ホーム内に、いつまでもこだましたのだった。


 五年後。
 麻布のマンションで、今宵がベッドでまどろんでいると、フライパンとお玉をカンカン叩き合わせながら闖入してくる人間があった。
「ハイハイ、起きて、起きてー」
 今宵は毛布に潜り込もうとするも、闖入者の手によって容赦なく剥ぎ取られる。
「ほらほら、今日は早く出なきゃいけないんでしょ」
 今宵は仕方なく上体を起こした。思い切り背伸びをする。
「おはよう、ヒミコ。あら?」
 今宵は目を瞬かせた。
「今日から学校だっけ?」
「そうよ」
 闖入者、ヒミコは挨拶がわりにもう一度、お玉とフライパンを鳴らした。
 ピンク色のエプロンの下に、紺色のブレザー一式を着込んでいる。この春から、ヒミコが入学する高校のものだ。
 相変わらず美しい金髪は、まっすぐ背中に流されている。
 十五歳になったヒミコは、さすがに身長百七十四センチの今宵よりは低いものの、充分にスラリとした美少女へと変わっていた。
 あくまで着ていたボロのせいだったが、着膨れしてダルマのようだった頃の面影はない。
 それだけではない。ヒミコの学習能力は群を抜いており、学校に通い出すと、瞬く間に他の生徒たちをゴボウ抜きにした。
 中学から直接大学へ、という声もあったのだが、「私が大学へ行ったら、誰がアンタたちの面倒見るのよ」とのヒミコのひと声で、近場の高校へ通うことになったのだ。
「ほら、こっちも」
 そう言うと、ヒミコは面倒を見なければならない“アンタ達”のもう一人の頭を、お玉で軽く叩いた。
「あ、ああ、おはよう、ヒミコ」
 隣のベッドからムクリと起き上がったのは寓人だ。
「グウ兄は今日、ガラス工場の作業工程ミーティングがあるんでしょ」
 ヒミコが腰に両手をあててそういうと、寓人は頷いた。
「そうなんだ。昨日は夜遅くまで資料を作ってたから眠くて」
 寓人が立ち上がり、パジャマを脱いで洋服ダンスを開ける。
「ほら、着替えはもうこっちに用意してあるから」
 ヒミコはすでに籠の中、寓人の作業着一式を用意していた。
 寓人は仕事熱心、責任感を認められ、ガラス工場の工程主任に昇進していた。
 今宵と寓人は、二年前に結婚した。今宵のマンションに三人で同居し、ヒミコは二人の養子として、正式に戸籍登録したのだ。
 とはいえ、ヒミコは娘というより妹、いや、むしろ最近では母親代わりになりつつあったのだが。
 三人でキッチンに移動する。
 テーブルの上にはトーストにサラダ、ハムエッグにコーヒーと、すでに朝食の準備ができていた。ここ数年、ずっとヒミコがつくっている。
 今宵のトーストにジャムを塗りながら、ヒミコが言った。
「今宵は今日から国会でしょうが。こないだみたいに口紅が落ちちゃってるなんてのはやめてよ。テレビに映っちゃって、恥ずかしいったら」
「だーれもそんなの見てないわよ。ちょっぴり剥がれちゃってただけじゃない」
「そんなこと言ってんじゃないの。仮にもひとつの政党の党首なんだから、他人に後ろ指さされないようにする責任ってものがあるでしょうが」
「はぁい」
 ヒミコからもらったトーストをかじりながら、いたずらを誤魔化そうとする子どものような間延びした返事をした。
 今宵は昨年、所属していた社会平等党を離党した。マスコミは首相に怒鳴った報復で党を出された、と面白おかしく書きたてた。
 しかし、事実は違う。
 今宵は、社会平等を謳いつつも、実際の政策とはあまりにも乖離のある政党を離れ、自分の理想とする政策を実現したいと思ったのだ。
 対立する国自党に転向せず、今宵は競争力のある社会、同時に社会福祉の充実を目指した自分の党を作った。
 世間知らずのお嬢様の無謀な冒険。世間もマスコミも、最初は白い目で今宵を見た。
 賛同する政治家は当初は数人であった。しかし、半年前の選挙で、新党として一気に五十議席を獲得。第三勢力に躍り出た。
 今宵はそのまま、若干二十二歳にして、新党の党首に就任したのだった。
「ね、ヒミコ。三日前の入学式のあと、ずいぶんたくさんラブレターもらったんでしょ。誰かと付き合うの?」
 今宵はコーヒーを飲みながら、いたずらっぽく聞いた。
「おお、そうだ、ヒミコ。気になる男の子がいたら、いつでも家に連れてきていいんだぞ」
 寓人も同調する。
 ヒミコは中学時代からその美しさが男たちに猛威をふるい、もらったラブレターの合計数は百通ではきかなかった。
 ヒミコいわく「直接間接含めて告白された数をいれたら、その三倍はある」とのことである。
 高校に進んでもそれは変わらず、入学式後からすでに同級生、上級生含め三十通のラブレターをもらっていた。
「まったく、高校生になっても『好きです』だの『キレイだ』だの『あなたのことばかり考えてます』だの、もうちょっとマシなことに頭を使えないのかしら。一応全部読んだから義理は果たしたわ。もう全部ゴミ箱よ」
 ヒミコは朝食を片付けながら、素っ気無くこたえた。
「あらー、もったいない。ラブレターの束、ここにもってきなさいな。私が選んであげる」
「そうだ、そうだ。お兄ちゃんが一番熱心そうなヤツを責任をもって選んでやるぞ」
 悪乗りする二人に、ヒミコが雷を落とした。
「コラ! バカなこと言ってないで、さっさと支度して仕事に行って頂戴な。まったく、大きな子どもが二人いるから、わたしは家から通える高校を選んだんですからね」
「はーい、すんませーん」
 今宵と寓人は声を合わせて立ち上がったのだった。