スタンド・バイ・ミー・エンジェル

八話 金庫の独房
 真冬のかぼそい太陽の光が、灰色の給水タンクを鈍く照らしだしている。
 午後二時。
 小学校を改修したワーカーズ・ホスピタルの屋上に、今宵と寓人は立っていた。
 屋上スペースの大半は、物干し台となっている。洗濯されたシーツが、かすかな風に揺らめいている。
「ヒミコちゃんを、私の養子にしたいの」
 今宵は真っ直ぐに切り出した。
 パジャマ姿の寓人は、松葉杖を片手にしていた。もう歩けるようになっていたものの、時折りフラつくことがあるためだ。
 ヒミコは寓人の洗い物をするため、一階の洗濯場へと行っていた。
「それは、ヒミコが望んだことなのかい?」
 寓人が、俯きながら声を絞り出した。
 今宵は首を横にふった。
「あの子にはまだ何も話してないわ。彼女の養育者であるアナタに、先に話をするのが筋だと思ったから」
「ありがとう。君の配慮に感謝するよ。じゃあ、このことはヒミコには話さないでくれ。ボクはあの子を手放すつもりはない。キミに任せるつもりもない」
 寓人はキッパリと断った。
 ヒミコの養育権を認めてくれるかどうか、五分五分だと思っていた。条件を付けてくるかもしれない、とも考えていた。たとえば金など。金でケリのつく問題であれば、今宵は喜んで応じるつもりだった。
 しかし、議論の余地なく拒否された。カチンときたことは否定できない。
「アナタは、自分が社会の落語者であることの口実を、あの子に求めているだけ。アナタがあの子に必要なんじゃない。アナタにあの子が必要なだけよ。あの子はかわいいし、根は気立てがいい。頭もいい。あの子の将来を、アナタは真剣に考えるべきよ。あの子は、人間は、餌を与えていればなついてくるペットじゃないのよ」
 感情を殺して、冷静に話すつもりだった。しかし、言葉に棘が生えるのを、抑えることができなかった。
 寓人は顔を伏せている。
 灰色のガウンを乗せた肩が、小刻みに揺れていた。
「ボクは、キミを殴ってやりたいと思っている」
 寓人の声は震えていた。俯いたまま続ける。
「だけど殴らない。あの子に、暴力と盗みはいけないと教えているからだ。そうさ、ボクは落伍者だ。社会の底辺を這い回っているネズミだ。何の力も持っていない。あの子を満足に食べさせてやることもできない。暴力と盗みはいけないと教えてきたけれど、それ以外のことは何だって、君の講演会で当たり屋だってして、その日の食事とベッドを確保してきた。そんなボクだけど、誰よりもあの子のことを真剣に考えてきた。その思いだけは、誰にも否定させない」
 寓人の声は、聞き逃しそうになるほど小さなものだった。顔をあげることもしない。それが不気味な迫力を言葉に与えた。
 しかし、今宵は一歩も引かなかった。
「私は、私もあの子がかわいいの。私は、同世代の人たちよりはずっとたくさんの収入があるわ。あの子が将来もっと高等教育を受けたいと言えば受けさせられるし、あの子が望む仕事を紹介してあげられる。求めるものを与えることができる。あの子は人を惹きつける魅力があるわ。アナタに、あの子と別れろとは言わない。あの子を養育する権利を、私に認めて欲しいの」
「それは……、それはあの子が決めることだ」
「十歳の女の子に、そんなことを決めさせるなんて無責任よ。親代わりであるアナタが、責任をもって、あの子のためになる選択をしてあげるべきだわ」
「責任! 責任だって!?」
 寓人は激昂した。
 初めて上を向けた顔が、真っ赤になっている。
「社会から脱落した者には、個人IDすら発給しない。国民扱いしない。そんな境遇で生まれた親なしの子どもたちは、豚小屋みたいな施設に入れられる。食べ物を奪い合いながら、育てられる。そして十二になったら、労働者として放り出されるんだ。教育を受けていないせいで、ろくに考えることもできない、機械の部品としてね、そんな国の、いったいどこに“責任”なんて言葉があるっていうんだ? 個人IDを持てない弱者は切り捨てて、統計に含めない。そりゃこの国は今でも一等国だろうさ、数字の上だけではね。数十年前、君の所属する社会平等党とやらが政権を取って以来、この国はホント平等になったよ。平等じゃない人間は切り捨てて、見えない、聞こえないふりをしているんだからね」
「だから私は、できるだけ力を尽くしてる。社会の不平等を無くそうと、国会で努力しているわ!」
 今宵も声を荒げた。自分の仕事を否定されたと感じた。ますます感情を抑えきれなくなっていた。
 寓人は一息つくと、ふたたび声を低くした。
「君は、孤児院の独房を知ってるかい?」
「独房? 罰を受けるために入る、一人用の小さな部屋のこと?」
「教科書どおり言えばそうだね。けど孤児院にあるのはちょっと違う。まあ、君みたいな子が知らないのも無理はないけど」
 言いがかりのように思えたが、言いたいことをすべて言わせたほうがいい。
 今宵は寓人の話を遮らず、無言で続きを促した。
「金庫なんだ」
「金庫?」
「孤児院の院長室にある金庫が、孤児に罰を与えるための独房なんだ。今のヒミコが、手足を折り曲げてようやく押し込められるくらいの大きさでね。悪さをした、いや、悪さなんかしてなくて、ただ院長の機嫌が悪いだけで、誰かがそこへ押し込められる」
 今宵は唾を飲み込んだ。
「押し込められると、自分の指先が顔に触れるまでどこのあるのかわからないくらい真っ暗さ。三分もすると、手足の指先がジンジンしてくる。肘や膝を無理やり曲げてるから、血が通わなくなってくるんだ。そのうち体中が痛みはじめる。手足を、背中を伸ばしたいって、体中が悲鳴をあげるんだ」
 寓人の表情は、暗く淀んでいた。
「でも、本当に苦しいのはそんなことじゃない。その先さ。空気が足りなくなるんだ」
 今宵は思わず、手の平を自分の口の当てた。
「すぐに空気が薄くなってくるのがわかる。呼吸をしてるのに、呼吸をしてないんだ。わかるかい? そうなると、金庫内から酸素が消えるのはあっという間だ。ボクは、空気が吸いたくて吸いたくて、壊れた水道栓みたいに、口からダラダラとよだれを垂らしつづける。でも、欲しいものは全然口に入ってこない。やがてよだれの代わりに口から泡を吹き出す。意識が白くなり始める。意識を失えば楽になれるんだけど、失わないんだ。ほんのひと呼吸、酸素を吸えれば、この状態から脱出できるって、体はわかってるからね。簡単には気を失わない。早く死んだほうがマシっている酸素不足の地獄の苦しみの中、気が付けば体中から体液を、涙を、小便を垂れ流している。もういよいよ頭が真っ白になって、何も考えられない、ああ、あとちょっとでこの苦しさから開放される、って時に、ようやく金庫が開けられるのさ」
 今宵は言葉がなかった。
「金庫から引きずり出され、もう指先一本動かせないボクの首ねっこを足でふんづけて、院長は言うんだ。『腹が減ったとか、仕事するのが嫌だとか、贅沢抜かすな、これが生きてるってことなんだ。生きてるだけで有難いと思え。わかったか? わかったら、二度と反抗なんかするな』ってね。アルコールに匂いをプンプンさせながら、そう言うんだ……」
 寓人はしばし嗚咽した。
 やがて涙を拭くと、今度は口調が少し軽いものになった。
「キミが紹介してくれた病院に入院してた時、個室を拒否して大部屋に移ったのを、キミは不思議に思ってたね」
 今宵は頷いた。
「理由は怖いからさ。金庫の独房を思い出してしまうんだ。たとえ六畳間でも、夜中真っ暗になる部屋は、ボクは怖くてたまらないんだ。心臓がバクバク動悸して、キンキン耳鳴りするんだ」
 寓人の生い立ちは可哀想だと思う。施設がそんな現状なのば、改善しなければならないと思う。しかし今は、それとこれとは話が別だ。今宵は同情の心を押し殺して言った。
「だからって、星空の下で、ヒミコちゃんを巻き添えにして野外生活を続けるなんて、あなたのエゴだわ」
 寓人は、もう反論してこなかった。
 クルリと背を向ける。
「明日、ボクはここを退院する。品川駅から、南に向かうつもりだ。ヒミコにもそう伝える。この病院の費用をみてくれてありがとう」
 そう言うと、寓人は振り返りもせずに、屋上の昇降口へ消えていった。


 翌日、平均深度約百メートル、日本一深い地下鉄、通称“もぐらライン”車両に、今宵とヒミコの姿があった。
 真昼の下り列車は、二人のほか、同じ車両内に五人が乗っているだけである。
 今宵は、隣に座るヒミコを手を握ったまま、ずっと話しかけていた
「私は、ヒミコちゃんにこれから必要なものを与えられる。寓人さんのことは、私が仕事を紹介するわ。任せて、そういう方面に議員は強いの。ね、私と一緒に暮らしましょう」
 初めて会った時に来ていた古い服を、ヒミコはふたたびダルマのように着込んでいた。美しい金髪は、ひと筋残さず毛糸の帽子に仕舞い込まれている。
 今宵が与えた高価な服は、すべてマンションに置いてきていた。
 昨夜からの説得に、ヒミコは耳を貸さなかった。
 寓人のいうとおりに、ふたたび旅に出るつもりなのだ。
「ね、私と一緒にいれば、ヒミコちゃんの好きなアイスクリームはいつだって、いくらだって食べられる。きれいな服も着られる。学校だって、ヒミコちゃんにふさわしいところへ通えるのよ」
 今宵は、最後の説得を試みていた。
「今宵の申し出は、本当にありがたいと思うわ」
 ヒミコが、列車に乗って以来、初めて反応を示した。
「わたし、本当のところ、学校には行ってみたいと思ってるの」
「じゃ、じゃあ」
 勢いこむ今宵を、ヒミコが手で制した。
「ねえ今宵、私が押し込まれてた施設の名前、知ってる?」
 今宵は首を横に振った。
「幸せ学園、って言うの。フフ、おかしいわね」
 ヒミコが自虐的な笑みを浮かべる。
「そ、それはきっと、幸せを願う意味を込めてつけた名前なのよ。たとえ今は幸せでなくても、そうなるように希望を込めて」
 ヒミコは軽くため息をついた。
「幸せの意味は、わたしと今宵とでは違うわ。私はバイクの荷物入れに捨てられていた孤児だし、今宵はお姫様のように育てられ、そして今もお姫様のような暮らしをしているお嬢様なんだもの。一緒なのがおかしいと思うの」
 年齢に不相応な、大人びた口調だった。
「ヒミコちゃんにとっての幸せってなに? 寓人さんのことなのかしら」
「そうね、そうかも」
 小首を傾げて思案したあと、ヒミコはつづけた。
「変な髪の色だって、他の子どもから毎日毎日、髪の毛がグシャグシャになるまでひっぱり回されてたの。特に乱暴な男の子は、私の髪の毛を束ねて『黄色い手綱だ』って言って、四つんばいにして歩かせもしたわ。小石だらけの庭を何週も歩かされて、手のひらと膝は血だらけ。泣きながら庭の隅に蹲っていると、食事は食べられてた。早く家に帰りたい先生たちは、やっかいごとは真っ平御免って見て見ぬふり。そんな毎日だった私にとって、将来の希望、幸せなんて、いったい何の意味があるの?」
「そ、それは」
 言葉が出てこない。
「十三才で工場へ出稼ぎに出ていたグウ兄は、半年振りに戻ってくると、私をみて、すぐ施設から連れ出してくれたわ。頑張れば良くなるとか、明日になれば変わるとか、余計なことは言わずにね。私が望んでいたことは、まさしくそれだったの。それだけが私にとって幸せだったのよ」
 ヒミコはそこでひと呼吸置いた。明らかに、あまり語りたくない過去だったのだ。しかし、ふたたび話し出したヒミコの声は、明るいものに変わった。
「私たちは旅に出たの。楽しかった。行きたいところに行って、眠りたいところで眠る。ほとんど野宿だったけど、グウ兄と一緒の寝袋に入ってれば、ちっとも寒くないし、怖くもなかったわ。私とっても幸せだった」
 二人の生い立ちには同情できる。寓人がいなければ、ヒミコはここまで大きくなれなかったかもしれない。もっと別な性格になっていたかもしれない。
 ヒミコのとっては、寓人だけがすべてなのだろう。
 しかし。
 今宵は自分に言い聞かせる。
 これからは違う。ヒミコはこれから難しい年頃になる。もっと落ち着いた環境が必要だし、教育も受けさせてやりたい。
 寓人と離れて暮らすのは、ショックかもしれない。しかし、すぐ慣れるはずだ。
 今宵のススメが正しかったと、ヒミコも、寓人も、近い将来わかってくれる。
 今宵は意を決して切り出した。
「ねえ、民法には、こんな決まりがあるの。『未成年に対する、養子及び養育』に関する規定がね」
 ヒミコが怪訝な顔を向けた。
「一定収入、判例では年間三百万円の収入が保証されている人でないと、養子縁組することはできないの。悪く言うつもりはないけれど、寓人さんには、そんな安定した収入はないわ」
 IDカードも持っていないのだ。税金や国民保険も収めてはいまい。
「実の兄妹でもないアナタたちが一緒に行動していること自体、法律に違反しているのよ。ヒミコちゃんは義務教育の学校にも通っていないわけだし。だから」
 言い淀んだ今宵だが、ここまできたら言ってしまうほかない。
「私は国会議員という立場上、アナタたちを見過ごすわけにはいかない。法律にのっとって、あなたたちを別れさせることもできるのよ。いえ、そうさせることが、本来なら私の立場なのよ」
 ヒミコの顔から、ここ数日一緒に過ごしていた間の、生意気で、それでいて素直な天真爛漫さが消えた。
「本気で、言ってるの?」
 ヒミコの声が、震えている。いま初めて会った人のような目で、今宵を見ている。
 失敗した、と後悔した。
 今宵は前言を撤回したい衝動に駆られた。
 その時、突然、列車内の照明がすべて消えた。
 悲鳴のような金属音が鼓膜を打つ。
 ヒミコの体が今宵に押し付けらた。今宵は右肩をサイドバーに嫌というほど打ちつけた。
 数秒間、神経を逆撫でする金属音が続いた後、列車が止まった。
 何も見えない。
 列車内だけでなく、地下鉄構内の電灯もすべて消えている。
 目の前にかざした手の平さえ見えない暗闇に突如、今宵とヒミコは放り出された。