スタンド・バイ・ミー・エンジェル
九話 スカイゲートR
鼻をつままれても分からない暗闇の中、今宵とヒミコは手を取り合って、まんじりともせずシートに座っていた。
緊急停止の理由を告げる車内放送はない。大声で呼びかけてくる地下鉄職員もない。
「どうしたのかしら、事故?」
今宵は、ヒミコに囁いた。
ヒミコの小さな手のぬくもりだけが、パニックになりそうな今宵の心を静めてくれる。
「たぶんね」
ヒミコの声は、思いのほか落ち着いていた。
「よくあるのよ、もぐらラインじゃ。古い車両と設備だし、手入れも行き届いてないしね」
「そ、そうなの」
「でも、止まるのはともかく、電気まで落ちちゃうのは、私も初めてだわ」
車両内に、今宵たちのほか、数人の客が乗っていたはずだ。
今も人の気配は感じる。列車全体には、相当数の乗客がいるはずである。
しかし、誰も事故の原因を求めて騒ぎ出したりしない。
「パニックで半狂乱になるなんて、映画の中だけの話よ」
今宵の疑問に、ヒミコが答えた。
「ビルの中で火災発生のサイレンが鳴ってもさ、誰だって周りをキョロキョロ見回すくらいで、パニックになって出入り口へ殺到したりしないでしょ。自分の服に火が付いてるんならともかく」
今宵は頷いた。これではどっちが大人だかわからない。
他の乗客たちがゾロゾロと今宵たちの前を歩いていく気配を感じる。不気味なほど誰も喋らない。後ろの車両に向かっているようだ。
「最後尾の緊急口から線路に出るみたいね」
ヒミコが囁いた。
「復旧を待つんじゃないの?」
今宵も囁き返す。
「バカね。もぐらラインの復旧なんて待ってたらミイラになるわよ。ここは使えない公務員の掃き溜めなんだから」
精密なダイヤ運行を世界に誇る日本の鉄道に、こんなヒドイところがあろうとは。今宵は議員ながら、まったく知らなかった。
「じゃ、私たちも行きましょうか」
立ち上がろうとするヒミコ。
「わ、私たちは、待ちましょう」
今宵はヒミコの腕を掴んだ。
「だから、待ってたって、ムグゥ」
続けようとするヒミコの口に、今宵は手の平を当てて遮った。
「いいから。私たちは待ちましょう」
今宵は恐ろしかった。整然と避難を開始した乗客たちだが、暗闇の中、もし暴徒化したら、自分たちはどうなるのか。女、子どもでは、どのような災難が降りかかってきても防ぎようがない。
今、自分たちがここにいることを知る人間はいない。他の乗客たちが去ってしまうまで、じっとしているほうが安全だ。
目算はあった。バッグの中に手を滑り込ませ、IDカードにそっと触れる。他のカードはいざ知らず、高額納税者にのみ発給される今宵のパープルカードは最上クラスのものだ。マリアナ海溝の底からでも交信できると言われている。他の乗客が避難したのを見計らって、秘書に連絡をとればいい。すぐに救助隊が差し向けられるだろう。
まもなく、他の乗客の気配がなくなった。
予定通り、今宵はバッグからカードを取り出した。通信のパネルに触れた時である。クッキーを割ったような乾いた音が、車両前方から聞こえた。次の瞬間、耳をつんざく轟音が構内に反響し、シートが蛇のようにのたうった。
二人は中空に投げ出された。ヒミコをかばった今宵は、床に背中をしたたかに打ちつけた。一瞬、呼吸ができなくなる。
それで終わりではなかった。
身を起こす間もなく、車両の前方から、身を焦がさんばかりの熱風が襲ってきたのだ。
今宵は熱風に背を向けるようにして、ヒミコを懐にかくまった。
空気に大量の粉塵が混じっている。とても呼吸などできない。もうあと数秒で限界、という時点で、熱風は止んだ。
今宵はヒミコを抱えたまま、上体を起こし、大きく息をついた。
「今宵、今の、なに?」
ヒミコが恐怖に震えている。
「わからないわ」
そう答えたが、地下鉄構内の滑落に違いない。原因はなんだろう? 地震か、あるいは、テロリストの破壊工作活動か。
暗闇に目が慣れてきていた。目の前のヒミコの顔は判別できる。
粉塵で顔が真っ黒になり、ひどい有り様になっている。自分も同じことだろう。
立ち上がり、衝撃で失くしてしまったカードを探す。車両後方に飛ばされていたカードはすぐに見つかったが、ピクリとも反応しなくなっていた。
先に避難した乗客たちは、どうなっただろう。もうホームに到着し、無事避難できたのだろうか。自分たちも、歩いてホームを目指すべきか。
今宵は首を横に振った。
原因がわからないが、地下鉄内の崩壊が始まっている。いま外に出るのは危ない。人間は拳ほどの大きさの石が頭に落ちただけで、簡単に命を落とす。
鉄のフレームに守られた列車内と留まるほうが賢明に思える。全体が崩壊してしまわない限り、落石程度は持ちこたえられるだろう。
しばし逡巡した後、体を震わせ、ひと言も発しないヒミコを抱きかかえるようにして、車両の最後尾に移動した。
中にいれば多少は安全だし、何かあればすぐ構内に飛び出すこともできる。救助隊が来たときもわかりやすい。
一瞬だけ発信したカードの電波は秘書に届いただろうか。
幸い崩壊は止まっている。最初の轟音以降、構内は水を打ったような静けさだ。
衝撃で腕時計のガラスが割れ、針は止まっていた。
もう半日も待ったのか、あるいは、数分に過ぎないのか。
暗闇の中で、時間の感覚が次第に失われていった。
気配を感じたのではなかった。
今宵は何ということもなく、外を確認するため、列車最後尾の非常扉を押し開けたのだ。
次の瞬間、正面から強烈なライトを浴び、今宵は頭の中まで真っ白になった。
立っていられず、その場にしゃがみこんでしまう。
「な、なに?」
目を細めながら、ヒミコも顔を出す。
ライトが消え、オレンジ色の予備灯のようなかぼそい光に切り替わる。
光の発生源を見たとき、今宵が思い出したのは、幼い頃、遠足で行った水族館だった。
百八十度パノラマで展開する水槽の中、他の魚を圧して悠々と泳ぐ巨大なホオジロ鮫。
ホオジロ鮫が今宵に向かって泳いできた時、思わず先生の後ろの隠れてしまったのだ。
サメを思わせる流線型の物体が、かすかな音さえ立てることなく、まさしくここが水中であるかのごとく、静かに宙に浮いている。
「スカイゲートR……」
日本産業界と、今宵の所属する社会平等党が産官一体で開発を推し進めている次世代推進機。
資料や映像では何度も見たが、こうして実物を目の前にするのは、今宵も初めてだった。
呆然とする二人を尻目に、スカイゲートRは静かに半回転すると、横腹をピタリと列車の最後尾に付けた。
一見、何もないように見える横腹に光の亀裂が走り、静かに扉が開く。
光の中から、四十代半ばと思われるスーツを着た男が現れた。
「茶屋今宵、先生、ですね?」
今宵は頷いた。
「私は首相戦略開発室に所属する下村と申します」
男はスーツの内ポケットに手をつっこみかけて、止めた。名刺を出そうとして、そんな場合ではないと気がついたのだろう。
「ミカタ電機から開発室に出向し、スカイゲートR開発の主任を任されております。先生の秘書、田沢さんから緊急の連絡が入り、ここへ先生をお迎えにあがりました」
今宵は膝から力が抜けて、その場へ崩れ落ちそうになった。
カードの発信が、秘書に届いていたのだ。
下村が言うには、現在、地震が原因で地下鉄各所で災害が発生しているとのことだった。
「崩落の危険があるため、レスキュー隊も出動は見合わせています。このスカイゲートRは、要人救出優先で、首相の指令で極秘に救助に回っています」
スカイゲートは試作機の段階であるため、まだ専門のオペレーターが育成されていない。そこで技術者である下村が直接操縦し、ここまできたのだという。
今宵の居場所は、カードの発信ですぐに突き止められたという。
「さあ先生、お乗りください。地下鉄内は火災が発生している場所もあります。瓦礫の散乱で、歩きでは危険です」
促され、今宵はヒミコの手を引いて、スカイゲートに乗り込もうとした。
下村が割って入った。
「ダメです、先生。その子は定員オーバーです」
「そんな!」
今宵は絶句した。
「定員といったって、この子ひとりくらい」
スカイゲートは、扉から内部構造は見えない。しかし、座席に座らせろといっているのではない。子どもひとりくらいのスペース、下村の背後にいくらでもあるように見える。
「スカイゲートRは、重力とバランスを取って走行します。わずかな定員オーバーでも無理なんです」
下村の声は切羽詰っている。たしかにそうだった。スカイゲートは従来の車とは違うのだ。
その時、スカイゲートの中から男の怒声が飛んできた。
「おい、なにモタモタしてる、煙が入ってきてるじゃないか。早く出発しろ!」
すでに救助された要人のようだった。
下村が今宵に耳打ちした。
「先生が最後の救助者です。スカイゲートは予定どおりの人員しか運べないんです」
「近くのホームに下ろして、すぐ迎えに来れるんでしょ?」
「いいえ、スカイゲートは、新宿の博愛プラザホテルへ急行します。そこですでに今回の事故についての、マスコミへの説明会が開かれています。先生は、そこへ出席して、今回の不慮の事故に対し、スカイゲートがいかに迅速に対応したかをお話していただきます」
ここでゴネても仕方ない。
いったん自分が脱出して、総理、あるいはメトロの責任者と直接交渉すれば、スカイゲートをまたすぐに出せるだろう。
自分は国会議員なのだ。それくらいの話を通す自信はある。
「すぐ助けにくるから」
振り返ると、ヒミコは胸の前で両手を組み、何かを呪文のように呟いてた。
「グウ兄、グウ兄……」
目を瞑り、汚れた顔を震わせている。
(この子は、私のことなど少しも信じてはいない)
ちゃんとした学校に通わせ、綺麗な服を着せてあげるという今宵を、少しも信じていない。
信じているのは、あの冴えない、ろくに仕事もせず、自分の妹に満足な食事も与えられない、まともな教育も受けさせてやれない、あの男なのだ。
(当たり前だ!)
今宵はギュッと目を瞑った。
閉じた瞳から、熱い涙がとめどなく流れ落ちる。
甲斐性のないあの男は、たとえ自分のお腹が背中にくっ付きそうなほど空腹でも、あの子を先に食べさせたのだ。寒い夜は、火のそばへヒミコを寄せ、自分の体を盾にして、冷たい外気からあの子を守ってきたのだ。
――あの子は、人間は、餌を与えていればなついてくるペットじゃないのよ
かつて寓人に投げつけた言葉が、今宵の脳裏をこだました。
自分は、あの男よりはるかに良いものを、ヒミコに与えることができる。
しかしそれは、与えることができるものを、与えているだけだ。
与えられない物を要求されたら、自分はどうするか?
答えは出ていた。
スカイゲートのタラップに掛けた自分の右足が、その答えだ。
「どうしました、急いでください」
下村の声に、イライラした棘が混じっている。
「私の、代わりに、この子を……、乗せてください」
今宵は声を絞り出した。
「妹……、なんです。先に連れて行ってください」
「先生」
下村が、今宵の耳元に顔を寄せて囁いた。
「冗談はやめてください。先生が亡き先代茶屋先生のたった一人のお身内なのは、誰もが知っています。それに」
下村はつづけた。
「最下層におられたので、救出は最後になりましたが、先生は最重要の要人です。先生を連れてこなければ、私がミカタの会長に、首相に叱責されます」
生きるか死ぬかの現場で、保身を口にする男。今宵はカッとなった。しかし、すぐ冷静になって、下村のこわばった顔をみる。
妻はいるだろう。ヒミコ、あるいは今宵ほどの子どもがいてもおかしくない。
男にとって体は、仕事は、自分だけのものではないのだ。自分が身代わりになってここに残るなど、家族のことを考えれば言い出せるはずもない。下村が悪いのではない。
「あなたのカードを出してちょうだい。そして首相につないで」
今宵は静かに頼んだ。
下村は自分の手に余ると判断したのか、おとなしくカードを取り出し、首相につないだ。手早く事情を説明する。
カードが今宵に渡された。
暗闇の中、ディスプレイが目も眩むばかりの光を放つ。先日も会ったばかりの六十絡みの男、大柄な首相の顔が浮かびあがった。
しわがれた、しかしよく響く首相の声が聞こえた。
「茶屋くん、なぜそんなところにいる? いや、今はとりあえずいい。かわいそうだが、民間人は後にしたまえ。君は政府の要人なのだ。一時の感情と、自分が為すべき仕事を混同してはいかん」
一時の感情? 混同?
今宵は顔を横に振った。
いや、そうなのかもしれない。
物事には、たしかに優先順位がある。それを感情でひっくり返していては、法治国家は成り立たない。大の虫を生かすため、小の虫を殺す。議員活動において、これまで今宵が当然のように行ってきたことではないか。
しかし……。
今宵の頬に、熱い涙が伝った。
ディスプレイの向こうで、首相がつづけた。
「我が党の議員に、不慮の事故とはいえ、地下鉄の災害などで死なれては、諸外国の笑いものになる。君はすぐに戻り、日本の緊急救助体制がいかに優れているか、国内外に発信しても」
「ウッセェ、じじぃ!」
未だかつて、一度も使ったことがない、使おうとすら思ったことがない乱暴な言葉が、無意識に飛び出した。
「ゴタゴタ抜かすな! 妹を置いて、先に逃げ出す姉がどこにいる!」
そう言い放って、今宵はカードを切った。呆気にとられた首相の顔が消える。カードを乱暴に下村に付き返した。
「今宵……」
ヒミコが、いつの間にか今宵の腰に抱きついていた。見あげる瞳には、今宵と同じく涙が溢れている。
今宵はニッコリ笑顔を浮かべた。
「先に行きなさい、ヒミコ」