スタンド・バイ・ミー・エンジェル

四話 もぐらライン
 ヒミコの足は、猫のように速かった。
 今宵も、運動神経の悪いほうではなかった。しかし、いかんせんこちらはセーラー服のスカート履きにローファーである。
 ジーンズに運動靴のヒミコに、とても追いつけない。
 小学校を改築した病院、ワーカーズ・ホスピタルを飛び出したヒミコは、まっすぐ地下鉄口へ駆け込んだ。
 ハイヤーで追おうとした今宵も、踵を返し慌てて地下鉄口に入る。
 新木場には、三本のメトロラインが走っていた。
 地下鉄の階段を下りた、もっとも地上に近い部分を走るのが、最新の東京ライン。
 そこからもう一段下を走るのは、都心を通らず、神奈川と千葉を結ぶよう直線的に走るマリーンライン。
 そして一番下が、ラインの深さ平均百メートル、日本で、いや世界でもっとも地底を走ると言われる国営十三号線、通称“もぐらライン”だった。
 ヒミコは東京やマリーンラインには目もくれず、飛ぶように階段を駆け下りていった。
 マリーンラインまでは、エスカレーターが設置されている。そこから下は、上りも下りも階段しかない。
 ヒミコの姿はとっくに見えない。この下にはもぐらラインしかない。階段では追いつけなくても、プラットホームで追いつけるだろう。
 今宵も、早足で階段を駆け下りていく。
 もぐらラインのプラットホームに到着した。パスケースから、IDカードを取り出す。
 今宵のパープルカードは、すべての地下鉄はおろか、全国の新幹線、国内線の飛行機ですら、カード払いのフリーパスで通過することができる。
 カードを手に、プラットホームをキョロキョロと見回す。
 どこにもカードリーダーが置いてない。どこで読ませればいいのだろうか。
 そこで、ようやく思い出した。
 もぐらラインには、カードリーダーが置いてない。チケット発券機もない。もぐらラインは、誰もが無料で利用できる地下鉄だった。
 もぐらラインを利用したことがない今宵は、すっかり失念していたのだ。
 上階の地下鉄に比べたら蛍光灯の量が格段に少ない、薄暗いプラットホームの中央で、ヒミコは足踏みしながら電車を待っていた。
 午後九時半の上りプラットホームは閑散としている。この時間、東京方面へ向かう人間は少ないのか。あるいは、無料地下鉄の利用者自体が少ないのか。
 ヒミコのそばに歩み寄ると、電車がやってきた。今宵はヒミコに連れ添うようにして、初めてもぐらラインに乗った。
 電車内は、スチール製ポール部分のメッキがあちこち剥げ、吊革は半数ほどが千切れたままだった。残っている吊革も、誰も掃除する人間がいないのか、手垢に汚れて、とても掴む気にはなれない。
 二人が乗ったボックス内には、今宵とヒミコのほか、乗客は誰もいなかった。
 元は青色であろうくすんだシートも、染みや煙草の焼け焦げだらけである。腰かける気にはなれない。
 床には、空き缶とスーパーやコンビニのビニール袋が散乱している。
 今宵は、東京には、当選して国会議員になってからしか来たことがない。初上京時には、すでに専用の公用車が用意されていた。地下鉄自体、片手の指で数えるくらいか乗ったことがなかったのだ。
 それでも、揺れるたびに空き缶が踊る地下鉄など、聞いたこともなかった。電車自体も古く、揺れが激しいような気がする。
「アンタ、なんで付いてくんの?」
 慣れない電車で、座ることもできず、吊革につかまることもできずにフラフラしている今宵に、ヒミコが聞いてくる。
 ヒミコは、器用にバランスを取り、電車の揺れにも微動だにしない。
「あの、風浪さんの、お兄さんの件だけどね」
「一昨日は、アンタの講演会での事故だったから責任取ってもらったけど、今回は面倒みてもらう必要はないわ」
 ヒミコはきっぱり言った。
 ホームレスだが、プライドはあるのかもしれない。やはりここは、はっきりと自分の責任であることを明らかにして、謝罪するべきだろう。
 だが……。
 ヒミコはどこへ行こうとしているのだろうか?
 食中毒と聞いて、今宵を疑うことなく、真っ直ぐに飛び出した。なにか心当たりがあるのだろう。
 もしかすると、人口甘味料フェイシンというのは医者の誤診。風浪は何か古いものを食べたなどの、よくある食中毒なのかもしれない。
「ヒミコちゃんは、どこへ行こうとしてるの?」
「ウシ屋よ」
 ウシ屋? 聞いたことがあるような。
「あそこで、グウ兄の具合が悪くなったに違いないわ」
 何か怪しげな食品を扱っている店なのだろうか。


 新木場から十分ほどで、もぐらラインは六本木駅に到着した。
 電車の扉が開くと同時に駆け出すヒミコ。そのヒミコを腕を、今宵はがっちりと掴んだ。
「なに、邪魔しないでよ」
 邪険に振り払おうとするヒミコ。
「待って。一緒に行きましょう。なんだかわからないけど、苦情を言うのなら大人もいたほうがいいでしょう」
 ヒミコが新木場の階段を駆け下りたのと同じスピードで、六本木の階段を駆け上がったら、今宵はとても付いていけない。
 地上に出たところでヒミコの姿を見失えば、その場で見つけることは不可能だろう。
 ヒミコの腕を掴んだのは、置いていかれないための窮余の一策だった。
 ヒミコは、しばし今宵を睨んだ後、ふと体の力を抜いた。
「そうね。大人で、しかも政治屋のアンタが一緒にいてくれれば、役に立つこともあるかもしれないわね」
 急ごうとするヒミコを宥めながら、二人は一緒に階段を上り、地上へ出たのだった。
 夜の六本木は、陰気に静まり返っていた。
 今日降った雪が、溶けることなく道の端々にこびりつくように残っている。
 見あげると、高速道路の高架線がのしかかってくるような圧迫感を覚える。
 林立する超高層ビルは、上階は明るく輝いているが、地上部分の一階は、シャッターがおろされ、まるで人気を感じさせない。
 今宵が生まれるずっと前、日本有数の歓楽街だったという面影はどこにもない。
 五階程度の古い低いビルだけが、地上客を相手に細々と看板を出し、営業を行っていた。
 街の暗がりのあちこちに、ジャンパーのポケットに両手を突っ込んだ男たちがたむろしている。
「ヒミコちゃん。そのウシ屋っていうのはどこにあるの? タクシー呼ぼうか?」
 ヒミコの手を掴んだまま、今宵は寒さに震える声で聞いた。
 正直、この街の地上部分を歩くのは気が進まない。ありていに言えば、恐ろしかった。
「そんなの必要ないわ。すぐ近くよ」
 そんな今宵の胸中を察することなく、ヒミコは今宵に右手を掴まれまま、街中に歩を進めていく。
 ウシ屋は、外壁が剥げ落ちそうな古ぼけたビルの一階で営業していた。
 ピンク色の看板を見たとき、今宵はウシ屋が何屋なのか、ようやく思い至った。
 ウシ屋とは、スタンド形式の、関東圏展開の牛丼チェーンなのだった。
 薄汚れた窓越しに、店内の様子が見える。
 数人の中年客が、立ったままテーブルで丼を掻きこんでいた。
 ヒミコがウシ屋の看板を指差した。
「この店よ。この店で食べた後、しばらくして、グウ兄は倒れちゃったの。怒鳴り込んでやらなきゃ気がすまないわ」
 今宵が制止するヒマもなく、ヒミコがウシ屋の扉をガラリと開いた。
「ちょっと!」
 大声をあげるヒミコ。
 そこで今宵は慌ててヒミコの口を右手で塞いだ。
「ちょっ、なに、すんのよ!」
 暴れるヒミコを、引きずるようにして店外へ引っ張り出す。
 何か拾い食いでもしたのなら、食中毒の可能性もあると思った。しかし、外観はボロとはいえ、仮にもちゃんと営業している店である。そう簡単に食中毒など出すまい。
 医者は、原因は人口甘味料のフェイシンにあると言った。普通の砂糖の価格の、十倍はするフェイシンである。牛丼チェーンなどが使うはずがない。
 暴れるヒミコの前に両膝を付くと、今宵は頭を下げた。
 ワーカーズ・ホスピタルで説明された病状と、それが自分のクッキーが原因であることを告げる。
 ウシ屋への怒りに燃えていたヒミコも、やがて今宵の説明に合点がいったのか、肩の力を抜いた。
「でも、アンタのクッキー、わたしも食べたけど、平気だよ」
「それは、特にお兄さんの体が弱ってたからだって、お医者さんが」
「ふーん」
 ヒミコは首を傾げてみせた。
「だからね、ごめんなさい。謝るわ」
 あらためて頭を下げる。
 そんな今宵の肩に、ヒミコの手が置かれた。
「まあ、顔を上げなさいな」
「許してくれるの?」
「しょうがないわね。アンタだって悪気があってグウ兄をあんな目に合わせたわけじゃないんだろうし」
 どうやら納得してくれたらしい。
 その時、路上に佇む二人に、声をかける者があった。
「よお、あんたら、ウチの店に用かい?」
 ウシ屋の店員だった。まだ若い。今宵と同い年くらいだろう。
「あら、ごめんなさい。用があったわけじゃないの」
「別にうちで食わねえなら、食わねえでいいんだけどよ。開けた扉は閉めてってくんねえか」
 寒空の中、ヒミコが開けた扉を、そのままにしてしまっていたようだ。
 二人に注意して、店に戻ろうとした店員が振り返った。
「そっちの坊主、夕方、別にアンちゃんと一緒に来た連れだろう」
 記憶力のいい男らしい。
「どうだい。アンちゃんの具合、悪くならなかったかい?」
 店員の言葉に、今宵の心臓が動悸した。
「どうして、それを? なにか心当たりがあるの?」
 今宵の言葉が詰問調になる。
 だが、男は今宵の真剣な表情に気がつかず、顔を空に向けて大声で笑った。
「ハッハッハ、そりゃそうさ」
「そりゃそうさ、って、アナタ!」
 今宵の厳しい調子に、男が怯んだ。
「おいおい、なに真剣になってんだよ。おりゃあ、ただ、その二人は一緒に来たけど、牛丼は一杯しか頼まなかった。で、その坊主が最初に八割がた平らげて、その兄ちゃんは、どんぶり一杯に紅しょうがを詰めてかっこんでたんだ。うちは紅しょうは無料だからな。紅しょうが好きってのは、いるこたいるが、あんなまとめてかっ込むのを見るのはオレも初めてでよ。具合悪くなったりしねえのかな、って思っただけだよ」
 男は弁解するようにしながら、店へと引っ込んでいった。
 ヒミコが反論しないところを見ると、その通りなのだろう。
 勢いこんだ自分がバカみたいだった。
「ねえ、今宵」
 ヒミコが口を開いた。
「わたし、お腹がすいちゃったわ。謝罪の気持ちがあるのなら、ここで牛丼おごってよ」
 ヒミコはあっけらかんと言った。
 食事を奢るのは構わない。しかし……。
 先ほどから、今宵は店の換気扇から漂う脂の臭気に、胸を悪くしていた。
 とてもここで食べる気にはならない。
 今宵は、あるアイデアを思いついた。
「ねえ、ヒミコちゃん、私の部屋に行きましょうか。そこでご飯作ってあげる」
 今宵の提案に、ヒミコはしばし名残惜しそうにウシ屋の看板を眺めた後、頷いた。
「ま、それもいいわね。政治屋のお宅拝見ってのも面白そうだし」