スタンド・バイ・ミー・エンジェル
二話 見舞い
昨夜、今宵の講演後に事故に巻き込まれたという男が、ベッドの上で、上体を起こしている。
小柄な男。
部屋に入った直後、男に対して、今宵が抱いた第一印象だった。
大部屋には、左右に三つづつ、計六つのベッドが並べられていた。
部屋の窓は締め切られ、暖房が効いている。上着を羽織っていると、額に汗が滲むほどだ。
今宵はクリーム色のハーフコートを右手に下げ、濃紺のセーラー服を露わにした。
もっとも、コートを脱いだのは暑いからではなく、他人を訪問する際の当然の礼儀ではあったのだが。
室内にはいま、男と今宵しかいなかった。他の入院患者もいたのだが、秘書の田沢が病院に根回しして、全員一時間ほど部屋を外してもらっていたのだ。
「具合はいかがですか?」
今宵はにっこり笑うと、静かに室内へ歩を進めた。
「ど、どうも」
ベッド上の患者はしどろもどろに頭を下げる。
男は作務衣のような、白いゆったりとした入院着を着ていた。身長は百六十センチはないだろう。百七十四センチの今宵から見れば、子どものようにも見える。
頬が張り、目が深い位置にある顔立ちは立体的で、どこか透明感を感じさせる。
小柄だが、肩や胸周りの筋肉はそれなりに厚い。無造作に伸ばしたクセのある黒髪が、男の耳や眉にかかっている。
ベッドの上には、読みかけの新聞が散乱していた。
「茶屋今宵といいます。昨夜は私の講演会の出口で、事故に遭われたそうで、大変申し訳ないことをいたしました」
「あ、いえ、とんでもない。茶屋さ、いえ、先生のせいなんかじゃ」
男は目を皿のようにしながらも、慌てて新聞を掻き集め、折りたたんだ。折り目が合っていないため、ふくらし粉を入れ過ぎたホットケーキのように膨れあがる。
一連の仕草をユーモラスに感じたが、今宵は見えないふりをして、涼しい顔をしていた。
今宵が見舞いに来ると、男は聞いていたはずである。信じていなかったのだろうか。
無理もない。今、日本でもっとも有名と言って間違いない女子高生衆議院議員・茶屋今宵が目の前に現れるなど。
今宵と同世代の男子や女子の間なら、もっと有名な人間はいるだろう。アイドルやミュージシャン、モデルなど芸能関係の有名人、あるいは全国大会で名の売れたスポーツ選手など。
だが、老若男女問わず、いや、むしろ政治への興味が実生活へのつながる年配になればなるほど、茶屋今宵の知名度は上がっていく。
日本一有名な女子高生。それは自慢でもなければ、今宵の自意識過剰でもない。単なる事実であった。
「お体の具合はいかがですか?」
今宵はもう一度、優しい口調で尋ねた。
男は胸元のはだけた入院着を直すことも忘れたまま、目を白黒させている。
有名人が現れたので取り乱しているのか。あるいは、この年齢の男にありがちな、女性への免疫不足から、どうしたらいいかわからないでいるのか。
今宵にはそこまではわからなかった。
「お、おかげさまで、検査の、い、異常もなくて、あ、あの、快適に、過ごさせて、もらって、ます」
男は途切れ途切れながらも、なんとか言葉を返した。
「あっ、ボ、ボクは、かざなみと、言います。“風”にさんずいの“浪”で、かざなみ、です。名前は、童話、なんかの“寓”の字に、“人”を付けて“ぐうと”です」
「風浪寓人さん」
しどろもどろに自己紹介されたが、もちろんすでに田沢から聞いている。
少し知恵の足りない男ではないのだろうか?
今宵は、心の中でそんなことを考えていた。
だがそんな男なら、田沢が面会をセッティングするはずもない。
風浪は動転して、今宵に椅子を進めることも忘れている。
まあいい。見舞いに来たという事実と、映像が残っていれば、あとはどうにでもなるだろう。男が変な話し方をしているところはカットすればいい。別に静止画でも構いはしない。
今宵は、病室の中を軽く見回した。
六つのベッドが並べられた大部屋である。
田沢の話では、個室を用意したのだが、風浪がどうしてもと大部屋を希望した、とのことであった。
テレビカメラの件をどう切り出そう、と今宵が考えていると、黒いシングルスーツを纏った田沢が病室に入ってきた。
田沢の後ろに、少年がついてきている。
裾を折り曲げたゆとりある少年のジーンズは、元が黒だったのか青だったのか分からないほどホコリで汚れていた。
スニーカーも同じで、紐はほつれそうなほどボロボロになっている。右の足先には穴が開き、ソックスを履いた指先が顔を覗かせていた。
上半身は、これまた薄汚れた、元は白と思われるダウンジャケットを羽織っている。ジャケットの下には、シャツやセーターを何枚も重ね着しているらしく、ダルマのようにまん丸に膨らんでいた。
頭には、紺色のニット帽が深々と乗せられている。
十歳くらいだろうか。
少年は、やや吊りあがった生意気そうな黒い瞳を、今宵に向けていた。
「そうだわ」
少年を見て、脇に置いていた紙袋から、今宵はラッピングされた箱を取り出した。
「これ、つまらないものですけど」
箱を風浪に差し出す。
「こ、これはどうも、ご丁寧に……」
風浪がベッドに横になったまま受け取ろうとする。それを、少年が横から奪い取った。
「何これ、食べ物?」
やや甲高い声で、少年が不躾に質問してくる。
「こら、失礼じゃないか」
風浪がたしなめる。少年は聞く耳を持たない。その場でビリビリと包装紙を破り始めた。
出てきたのは、クッキーの詰め合わせだった。
少年は小分けされたビニール袋を、勢いよく引き裂いた。クッキーを鷲掴みし、まとめて口に放り込む。頬を膨らませて、リスのように咀嚼した。
自分とほぼ同い年の風浪寓人がこのようなマナーなら、今宵は眉をひそめたかもしれない。だが、相手は子どもだ。素直は行動が、今宵には心地よかった。
とはいえ、咀嚼を終えた少年がクッキーを飲み込み、「マズ、味がしない」と感想を述べた時は、さすがにカチンときたのであるが。
「私が自分で作ったの。ケガをされてるし、カロリー控えめにしてあるのよ。口に合わなかったかしら」
「合わない」
少年の言葉に遠慮はなかった。
見舞いの品は、買ってきたものでもよかった。
お菓子や料理もできる普通の女子高生。それをテレビでアピールするため、昨夜、講演で遅くなったにも関わらず、真夜中にクッキーを焼いたのだ。
それをひと言、マズイ、で片付けられては、議員になり、感情を殺すことに慣れている今宵とはいえ、内心ムッとせざるを得ない。
「もっとお腹にたまるものじゃないと。所詮、お金持ちのおままごとか」
箱を胸元に抱え込み、マズイと言いつつも、ぼりぼり食べ続ける少年が、今宵にさらに追い討ちかける。
「あ、あの、お名前はなんていうの?」
笑顔の仮面を貼り付けて、話題を変えるように少年の名前を聞いた。
「ヒミコ」
少年は、クッキーを食べ続けながら、興味なさげに名乗った。
「へえ、素敵なお名前ね、まるで……」
女の子みたいな、と言いかけて言葉を飲み込んだ。
少年ではなく、女の子ではないか、と初めて気が付いたのだ。
言われてみれば、紺色のニット帽に半ば埋もれている顔立ちは、ホコリで汚れてはいるものの整っている。
ダルマのように着こんだ服から、体型は判別できない。
クッキーを掴む指先は白く、細い。
「ヒミコちゃんはいま何年生? 学校はどこへ通ってるの?」
性別を勘違いしていたことを誤魔化すように、今宵は話題を変えた。
「学校!?」
「そう、学校」
「ハッ、笑わせないで」
ヒミコは、クッキーを掴む手を止めると、もう戻らないのではないか、と心配してしまうほど、思い切り顔を歪めた。
「アンタもう分かってんだろうけどさあ、うちは貧乏なのよ。学校なんて私、行ってないのよ」
「行ってないって、あなた、学校は中学までは義務教育よ」
今宵は思わず地の声をあげて驚いた。
「あなた、いま十歳くらいでしょう?」
「ふんだ、誰があんなとこ行くもんか!」
ヒミコは、クッキーの箱を風浪に押し付けると、プイと病室を出て行ってしまった。
「す、すみません。普段はいい子なんですけど」
風浪が頭を下げた。
「いえ、いいんですよ。お兄さんがケガをされてるし、慣れない病院で妹さんも少し気が立っておられるんでしょう」
言葉ではそう言いつつも、今宵は心の中では、なんという兄妹か、と驚いていた。学校にも行ってないとなると、田沢の言うとおり、本当にホームレスのようだ。
「先生、ちょっと」
田沢に軽く声をかけられた。
「ちょっとごめんなさいね」
田沢に促され、二人は病室を出た。
ナースステーションの脇に設けられた待合室。そこで田沢は、人気のないことを確認して声をひそめた。
「先生、申しわけありません。調査が不十分でした。二人がIDを持たないホワイトだと、つい先ほど知りまして」
田沢が深々と頭を下げる。
「まあ、仕方ないわね」
今宵は腕を組んで頷いた。
「となると、テレビ取材の件は中止したほうがいいでしょうね」
「はい」
国民IDカードを持っていない、何もない“白紙”のカードを持つと揶揄される、俗称『ホワイト』。
統計調査に含まれないため、ホワイトがどれくらい存在するのか、正確にはわからない。一説には数千万人、日本人口の約四十%を占める、というデータもある。
ホワイトとはいえ、申告しさえすれば、誰でもIDカード、基本的なブルーカードの発給を受けることができる。
ただし、カード所有者には税金や社会保障費納入の義務も課されるため、発行を受けない人間が多いのだ。
今宵は、日本銀行に一億円以上の預金をした者にのみ発給されるパープルカードを持っている。国会議員とはいえ、今宵の年齢で一億円の貯金などできるわけもなく、実家の資産ではあるのだが。
カード非所有者には、公共施設や鉄道機関などの利用に、かなり制限が加えられる。民間施設も、高所得者対象なら、カードなしでは入れない場所は少なくない。
いま現在、今宵たちがいる病院も、本来、風浪のようなホワイトは入院はおろか、立ち入ることさえできないのだ。
国会議員の今宵の秘書である田沢が連絡したがゆえに、無条件で運び込まれたに過ぎない。
ホワイトを見舞う、国会議員の今宵。
それだけなら、まだ問題はないかもしれない。社会の労働者層と交流をはかる図は、マスコミ受けするし、世間一般の評価も良くなることはあれ、悪くなることはない。
だが、ヒミコが学校に行ってないのはまずい。義務教育すら受けさせてない男を見舞ったとなれば、違反を見逃したことになる。
国民に範を示さねばならない国会議員として問題がある。
ヒミコの件を教育委員会、あるいは地区の施設に連絡してまで改善するつもりは、今宵にはなかった。
風浪とヒミコのような例は、実際に出会うのは初めてだが、ニュース等ではよく聞く話だ。
些細な違反をいちいち取り上げることは、今宵の仕事の本分ではなかった。
「では、一階に待機させているテレビクルーに、中止の件を伝えてまいります。裏門に車を回させておりますので、先生はそちらでお待ちになってください」
「わかったわ」
田沢が別棟への渡り廊下を歩いていくのを見て、今宵はエレベータに向かおうとした。ふと足を止めた。
風浪の件は、後は田沢が始末をつけてくれるだろう。
入院費、治療費、そして仕事をしているのではあれば、休業補償も行う。しかし、別途の慰謝料は出さない。
そんなことを許しては、二匹目のドジョウを狙う者が現れるかもしれない。
それが昨夜、今宵と田沢が決めた、今回の件の始末のつけ方だった。
慰謝料を請求するのであれば、弁護士を立てて争う。
今宵の口からも、そこまできっちりと念押ししておいたほうがいいと思ったのだ。
事故が、本当は意図的であることはわかってる、甘えてもらっては困る、と。
病室の前へ行くと、少し開いた扉の中から賑やかな声が聞こえてきた。今宵は足を止めた。
「ねえ、本当に明日、退院しちゃうの、グウ兄?」
ヒミコの声だった。いつの間にか、中に戻っていたらしい。
「ああ、医者の先生からは、体調か回復したらいつでも退院していいって言われてるしね」
風浪の落ち着いた声。今宵の前ではしどろもどろだったが、やはりあれは緊張のためだったらしい。
「ウッソー、ウソ、ウソ♪」
ヒミコの弾んだ声。
「あの政治屋のお嬢ちゃんが、思ったよりずっとキレイだから、迷惑かけたくないって思ったんでしょー。もう、スケベなんだから」
「ち、違うって」
寓人の慌てた声で否定する。
「慌てるところが怪しい」
そう言うと、ヒミコはケラケラと笑った。
「あんな線の細そうなお嬢ちゃん、もうちょっと居座って圧力かければ、次はこんな子ども騙しのお菓子じゃなくて、現金持ってくるのに」
「いいじゃないか。あの先生のおかげで、今夜も暖房の効いたこんな快適な部屋で、キレイなベッドで寝られるんだから」
「もったいないなあ。骨の髄までしゃぶってやればいいのに」
「さ、明日の朝には出るから、ヒミコも準備はしておきな」
「はあい」
そこまで聞くと、今宵は何も言わず、病室の前を立ち去ったのだった。