スタンド・バイ・ミー・エンジェル

五話 ブロンド
 今宵とヒミコを乗せたタクシーが、麻布のマンションに滑り込んだ。
 今宵が東京での自宅として使っている、高級マンションである。
 部屋に入ると、今宵はまず、ヒミコを風呂へ入れた。
 マンションのスポーツジムで体を動かす時に使うトレーニングシャツとスパッツを準備する。ヒミコの着替えとしてである。下着は新品をおろした。
 どれも伸縮性が高く、小さめに作ってある。ヒミコにも何とか着られるだろう。
「ヒミコちゃんは何が食べたい?」
 脱衣室から、浴室に向かって声をかけた。
「お腹にたまるもの。カツ丼とか」
 浴室にヒミコの声が反響する。
「カツ丼……」
 料理は嫌いではなかったが、店屋物のレシピも材料も、手持ちにはなかった。
 脱ぎ散らかされたセーターやジーンズを、恐る恐るつまみあげる。
 触れた指先が、脂でヌルリと滑った。野良猫のような匂いに顔をしかめる。
 洗濯機にそれらを投げ込むと、スクリューの強さは最大、時間は最長にセットしてスイッチを押した。
 かすかな振動、重低音と共に、洗濯機が仕事をはじめた。
「カツ丼は材料がないなあ。ハンバーグでいい?」
 それくらいなら作れる。冷蔵庫には挽肉、タマネギがあったはずだ。
「いいよ」
 返事とともに、浴室の扉が開かれる。
 立ち込める湯気と共に、裸のヒミコが現れた。
「一人暮らしの割にはでっかい風呂桶ね。ふぅ、いいお湯だったわ」
 バスタオルをヒミコに渡そうとして、今宵の手が止まった。
「あ、あなた……」
 目が、ヒミコの髪に釘付けになる。
 お湯がしたたり、背中に張り付くヒミコの髪は、目の覚めるような鮮やかなプラチナ・ブロンドだった。
「ああ、これ?」
 ヒミコは裸のまま、指先で髪の毛を弄んだ。
「染めてんじゃないのよ。わたし金髪なのよ。どういうわけか生まれつき」
「ヒミコちゃんって、日本人よね?」
 マジマジとヒミコを顔を眺める。人種を尋ねるような質問をするのは失礼かもしれない、ということは失念していた。
 汚れが落ちてキレイになった顔は、白いことは白いものの、白人のそれではない。小さな顔立ちのせいで、相対的に大きく見える瞳の色は黒。鼻筋も特に通っているわけではない。かわいい、ごく日本人的な顔立ちである。
 毛糸の帽子を被って、髪を隠していた時は、日本人だと毛ほども疑うことはなかったのだ。
 髪だけが、白人でも滅多にみないような、艶々と光る見事な金色だった。
「さあね、私も捨て子だから、親はわかんないし、もしかしたら外人かもね」
 今宵から受け取ったバスタオルで体を拭きながら、ヒミコは関心なさげに答えた。着膨れしていた服を脱ぐと、ヒミコは平均か、あるいは細いくらいのスタイルだった。
「かもって、あなたのお兄さん、寓人さんは間違いなく日本人でしょ。普通の黒髪だし。お兄さんはご両親のこと、ご存知じゃないの?」
「わたしとグウ兄は、ホントの兄弟じゃないの。グウ兄が、捨てられていた赤ちゃんの私を拾ったのよ」
 ヒミコは、手渡された下着を身につけながら、あっさりとそう言った。

 淡いピンクのカーペットに、細かなバラの絵が散らされたクリーム色の壁紙。部屋に窓はない。白木作りのシングルベッドに、アンティークなイタリア製の化粧台が置いてある六畳間。今宵が寝室に使っている部屋である。
 今宵は鏡台の前に、ゆとりのあるスポーツウェアを着せたヒミコを座らせていた。
 自分は後ろに立ち、ヒミコの金髪にドライヤーを当てながらブラシをかける。
「きれいね」
 ブラシを通すたびに輝きを増すかのようなブロンドを、そっと手の平に乗せ、うっとりと囁いた。
「わたしは好きじゃないけどね」
 ぶっきら棒な返事。
「どうして? こんな素敵な金髪なのに。キューティクルだってすごいわ。ほら」
 今宵は、手にしていた髪を持ち上げて見せた。
 鏡に映った髪を見て、ヒミコは溜め息をついて、うんざりした声をあげる。
「大嫌い。この金髪のせいで、施設でどれほどいじめられたことか。いたって普通な今宵の黒髪が羨ましいわ」
「ええー!」
 今宵は大袈裟に驚いてみせた。
「私のほうこそ、黒髪なんかうんざり。ヒミコちゃんみたいな金髪までは無理としても、もっと明るい色にしたくてたまらないわ」
「カラーリングすればいいじゃない。大金もらってる議員さんなんだから、いいとこの美容室に通ってるんでしょ?」
「そりゃまあ、ね」
 地元選挙区では、地域一と言われる美容室に。東京では、ファッション雑誌で名を馳せるヘアデザイナーにカットしてもらっている。
 であるが、色は黒だし、スタイルはおかっぱのままである。
「議員になるとね、頭の古い、固いままの人を相手に、というか、そんな人ばかりを相手にしなくちゃいけないわけよ」
「いいじゃん、どう思われたって、自分は自分でしょ」
 今度は今宵は溜め息をついた。
「そうなんだけどね。交渉相手の役人や、対立政党の議員相手ならいいんだけどさ。後援会の人たちも、やっぱりそう思うわけよ。ボサッとしたロングの茶髪の小娘なんか、とても支持できん! とかさ」
「国会議員てのも、昼寝してりゃいいってわけじゃないのね」
 いったいどこからそんな知識を仕入れてくるのか。今宵はクスリと笑った。
「まあ、そういうわけ。だから私、一度も髪の色を変えたことないのよ。それどころか」
 今宵はブラシを鏡台に置き、両手で自分の髪をクシャクシャにかきあげた。絡まりあい、逆立つ髪の毛が鏡に映る。
「たまにはこーんな髪にして、それに似合う服なんか着たいと思うわけ。私だってまだ高校生よ。だけどダメ。私はずっと、百年も前に青春時代を過ごしたお婆さんのような形にしてなきゃいけないの。おじいさんたちの人気取りのためにね」
「髪が黒いままってのも仕事ってことね。ま、がんばんなさいな」
「ね、ヒミコちゃん?」
 今宵は素晴らしいアイデアを思いついた。
「お洋服を買いに行こうか」


 挽肉と刻んだタマネギ、香辛料を混ぜ合わせたハンバーグをオーブンへ入れる。調理開始のスイッチをオン。
 あとは三十分待てば、熱々ハンバーグの焼き上がりだ。
 今宵はショルダー付きの黒皮ハンドバッグを肩にかけた。
「さ、行こうか、ヒミコちゃん」
「寒くない?」
 薄手のスポーツウェアを着ただけのヒミコは、自分の胸元を見下ろしながら不安そうな声をあげる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
 今宵もTシャツの上に薄手のVネックセーター。下はジーンズ、素足にサンダルという軽装だ。
 不安そうなヒミコの手を取り、二人は部屋を出た。
 厚手のグレーモールが敷かれた中廊下は、マンションというよりもホテルを連想させる。
 通路も空調は効いており、真冬の寒気はまったく感じない。
 二人はエレベーターに乗り込んだ。今宵は十七階上になる九十階のボタンを押した。
 エレベータはかすかな摩擦音さえ立てず、静かに上がり始めた。
「上?」
 ヒミコが不思議そうに尋ねる。ビル一階のアーケード街へ行くと思っていたらしい。
「そうよ」
 説明する間もなく、エレベータは九十階へ着いた。
「なに、これ!」
 扉が開いた瞬間、ヒミコが驚きの声をあげた。
 発光ダイオードでライトアップされた、深海をイメージさせる水槽が視界に飛び込んできたのだ。
「水族館? なんでこんなとこに?」
 ヒミコは我も忘れて水槽に歩みより、両手の平をガラスにつけた。
 水槽の中には自然の岩や砂、海草が配置されている。
 今宵はヒミコの後ろに立った。
 目の前でヒラヒラと触手を動かすイソギンチャク。その合間から、黄色地に鮮やかなライトブルーの縦線が入ったクマノミが顔を覗かせる。
 正面からやってきて、ふいに真紅の横腹を見せてヒミコを驚かせたのはシキシマハナダイ。紙細工のような、折り目正しいメリハリを持つ体型の魚はニザダイだ。
 水槽の奥で、ブルーライトに照らし出され、フワフワと幻想的な上下運動を繰り返すのはミズクラゲとブルージェリーである。
 ヒミコは声を立てるのも忘れて、新たな魚を見つけるたびに、ガラスの前を横へ横へと移動していく。
 フロア中央に据えられた水槽は、直径約十五メートルのドーナツ型円筒状をしている。中央の空間は、別のエレベータの通り道となっている。
 フロアの足元から天井までの全面ガラス張り。
 ヒミコは次々と現れる色鮮やかな魚に目を奪われ、ガラスに額を貼り付けたままだ
 今宵はヒミコの後ろをついて、見守るようにゆっくり歩く。ついに水槽を一周し、もとのエレベーター前へ戻ってきた。
「すっごーい!」
 感嘆の声をあげるヒミコ。
 初めてみせる十歳の少女らしい無邪気さに、今宵は連れてきてよかったと満足した。
「ね、あれ見てよ」
 ヒミコが今宵の手をひき、水槽の奥を見るように促した。
 その瞬間、今宵は胸の奥に、これまで感じたこのない、甘く、それでいて締め付けるような感覚を味わっていた。
 生まれて初めて感じる母性愛だったのかもしれない。
 まだガラスに額を押し付けているヒミコの肩に手を置こうとした今宵だが、思い直し、ヒミコの手を取って軽く握りしめた。
「さ、服を見ようか?」
 おそらくは生まれて初めて水族館、水槽に泳ぐ鮮やかな魚を見たのであろう。ヒミコの黒い瞳は濡れたように輝き、頬は火照って紅くなっている。
 今宵に手を取られたことにも気づいていないようだった。