夜会の子犬と三毛猫姫
8、最初のダンスを私と
その日の夜。
ルーとニコはいつもの小部屋で、舌が焼けそうなほど熱々の紅茶をすすっていた。
夜会から戻ってきたばかりで、二人ともドレスのままである。
「で、どうすんの? これからあのジャガイモ君と帰るんじゃないの?」
ニコの声には棘がある。無理もない。実は王子だったというハプニングはあったものの、ペイトンにルーを引き留めさせるという企みは、成功しそうだったのだ。にも関わらず、結局失敗に終わった。
ルーとペイトンが踊る機会はめぐってこなかった。
ペイトンの周りは、常に女の子が取り囲んでいたし、早めに退席したアラベクが、ペイトンも一緒に連れ帰ってしまったからだ。
最初の最初に機会はあった。しかし、それを蹴ったのがルー自身だというのだから、怒りの持っていきようがない。
しかも、蹴った原因がボイドの為だというのだから、なおさら憤懣やるかたないニコである。
ルーは化粧机の椅子から立ち上がると、二つの封筒を手に戻ってきた。
「今日のお夜会に出席する直前に、手紙が二通届いたのよ」
ニコは小首を傾げてそれを受け取り、差出人の名前に目を落とす。
「あら!?」
差出人はルーの父、それにブラボゥト男爵、すなわちボイドの父親からだった。
中の便箋を取り出し、サッと目を通す。
内容は、二通とも要約すれば『婚約はいったん白紙に戻し、ルーは勉学に専念すべし』というものだった。
「どういうこと?」
ニコは訝しげな視線をルーに向けた。ルーがここにいられるというニュースは嬉しい。しかし、ブラボゥト男爵からも同じ内容の手紙が届いたことは不審だ。
「私ね、あれからお父様に手紙を出したのよ」
ルーは変わらずのんびりと紅茶をすすった。
「もっと勉強を続けたいってね」
「まあ、ルーはそう言ってたけどさ、お家のためにも結婚しなけりゃならない、とも言ってなかった?」
「それはそうよ。だけど私が一番どうしたいのか、っていうのは伝えていいでしょ。お父様も手紙でそう聞いてらしたし」
「それはそうだけどさ、ルー。父親からのは分かるとして、なんでブラボゥト男爵からまで、似たような内容の手紙が届くわけ?」
ニコは眉をしかめて、胸の前で両手を組んだ。何かまずいことが起こっているのではないのか?
「これってさ、率直に思ったとおりのことを言わせてもらうけど、言うことを聞かないアンタに腹を立てたブラボゥト男爵の、ルーと、ルーの父親への絶縁状じゃないの?」
「う〜ん、文面からはそんな怒ってらっしゃる感じはしないけど」
ルーはノンビリと答えた。
「実際のところ、私にもにもさっぱり分からないのよ」
その時、部屋の扉が静かにノックされた。
「あら、私の衛士かしら?」
二人は立ち上がり、扉を開ける。顔を出したのは、いつもの口髭の衛士隊長だった。
ニコはスイと進み出た。
「今日はちょっと遅くなるけど帰るわ。もうちょっと待ってて頂戴」
「かしこまりました、お嬢様。それと……」
口髭の衛士隊長がルーを見る。
「ルシンダ様にお客様が見えられているのですが」
「あら、どなたかしら?」
「はい、ペイトン様と名乗られている、若い男性の方です」
「ペイトンが!」
ルーとニコは異口同音に驚いた。
衛士の後ろから、ヒョイと燃えるような赤毛をのぞかせたのは、まぎれもなくペイトンだった。
夜会と同じ、白い軍衣をまとったままである。
「やあ、もう眠ってしまったかと思ったけど、来てよかった」
「よく来てくれました、ペイトン。さあ、中へお入りになって。熱いお茶を淹れますから」
「あ、いや、夜会で伝え損なったことを言いに来ただけだから」
尻込みするペイトンに、ニコの鋭い声が飛んだ。
「遠慮することはございませんよ、ペイトン様。私もおりますから」
ニコはズイと進み出て、ペイトンをキッと睨みつけた。
ルーの相手として王子は悪くない、と思いもしたニコである。
しかし、詳しいことは不明ながら、当座ボイドがルーを連れ去る心配はなくなった。
となれば、もうペイトンだろうが王子だろうが、ニコにはもう不要である。
王子様だろうが王様だろうが、ルーと自分の間に何か異物が挟まるようで、やはり不快になってきた。
早い話が、ニコにとって、ペイトンはもう用済みなのであった。
「さあ、どうぞ、ペイトン。遠慮しないで」
ニコの気持ちを知る由もなく、ルーが促す。
「じゃあ、少しだけ」
こうして三人は深夜、ルーの小さな部屋で膝を付き合せることになったのだった。
ブラボゥト男爵から手紙の謎は、ペイトンが解き明かしてくれた。
「ブラボゥト男爵には、兄のアラベクから手紙を出してもらいました。『ルシンダ・ナルカ嬢は成績優秀につき、もうしばらく王立学問所に置き、学業の研鑽に努めるべし』ってね」
「まあ」
「アラベクは民生府の長官も勤めてますから、そういった方面にも顔が利くのです。それに……」
「それに、なに?」
ニコがつっけんどんに聞く。
「僕からも、ルーのお父様宛てに手紙を出させてもらいました。こないだルーに話した通り、僕は家督を継ぐつもりはありません。ホゥ先生の私塾を出たら王子は廃位にしてもらって、王位継承権も抹消してもらうつもりです。ですから王子の名を使うのは正直ではないのですが、ルーの父上にはヴォルデニク王子の名で、ルーが満足いくまで勉強させて欲しい、という内容の手紙をかかせてもらいました。ルー、余計なお節介だったでしょうか?」
「とんでもありません。とても嬉しいです、ペイトン」
「ねえ、ひとつ言わせてもらうけどさ」
ニコはたまらず口を挟んだ。
「そんな内容の手紙を王子の名で送ったら、ルーの父親は絶対勘違いしちゃうよ。おお、我が娘が王子様の目に止まったようだ、ってね。アンタ、それくらいの覚悟はして手紙書いたんでしょうね」
ニコはもうペイトンを王子様として敬うことはやめた。
「まあ、ニコったら、先のことはともかく、ペイトンは私のためを思って書いてくれたんじゃないの。その気持ちには感謝しなくちゃいけないと思うし、実際、私は本当に嬉しいわ」
ルーは相変わらずノンビリしたものである。
「ルーがそう受け止めてくださったのなら、僕も嬉しいです。ホント先のことはともかく、僕はルーともっと一緒に勉強したいと思ったし、その気持ちだけで書いたんですから」
まったくもってお嬢ちゃん、お坊ちゃんな二人である。ニコは肩をすくめてみせるしかなかった。
ペイトンは話をつづけた。
「アラベクは……、兄は人あたりの良い社交的な性格も持ち合わせてますけど、本来は僕と同じ、学問の道を究めたかったんです。塔の設計士になりたかったんです。ですけど王家の長男という立場上、そうはできなくて。それで僕がホゥ先生のところで学ぶのを一族の皆が反対する中、アラベクだけは応援してくれているんです。ところで……」
ペイトンはひとつ咳払いをしてつづけた。
「今日の僕の踊り、どうでした? ルーに教えてもらったとおり、大きな失敗なく踊れたつもりだったのだけど」
「とても上手だったわ、ペイトン。私、ずっと見てましたよ。とても初めて踊っているとは思えないほど落ち着いてたわ」
「よかった」
ペイトンはニコリと笑った。そして立ち上がり、右手をルーに差し出す。
「それではルー、ここで僕と、あらためて踊っていただけませんか?」
「ちょっと、ちょっとッ!」
ニコが口を挟んだ。
「こんな狭いトコで踊るのは勝手ですけど、私はもう寝ますからね! ルー、私の衛士たちに今夜はここに泊まるって、そう伝えといて頂戴」
ニコはそう言い捨てると、自分の小部屋に入り、乱暴にドアを閉めたのだった。
ルーとペイトンは互いの顔を見合わせ、そして微笑んだ。
「ニコは本当に良いお友達ですね」
ペイトンが囁く。
「ええ、大切な私の友達です。それにとても優しいんです」
「そうですね。ルーのために、ニコは本当に懸命に駆け回ってました。僕は、羨ましかった」
「夜会の時、ニコはダンスを希望する男性と必ず全員踊ってあげるんです。どんなに疲れているときでも、足が痛くても、最後まで楽しげに」
「ルー、余計なこと言わないの!」
壁の向こうから声が響いてきた。
「それとペイトン様、お茶を飲んで踊ったら、なるべく早くお引き取りくださいませ。ここは、女性の部屋なんですから」
壁越しの抗議の声に、二人は肩をすくめた。
「踊りましょうか、ペイトン」
「ではあらためて、ルー。今宵、この夜会での最初のダンスを、私と踊っていただけますでしょうか?」
「よろこんで」
腰をかがめて優雅に差し出されたペイトンの手に、ルーは自分の手を預けた。
ロマンチックは伴奏は無い。気分を盛り上げる薫り高いお酒も無い。そんな静かな部屋の中で、二人は互いに心を合わせながら、静かにステップを踏むのだった。