夜会の子犬と三毛猫姫

2、子犬のお家
「子爵様のお屋敷が、私の部屋に近くてよかった。こうしてひとりでも、歩いて帰れるもの」
 星明りが頼りの、心もとない明るさではあったが、ルーは勝手知ったる確かな足取りで、レンガ道にコツコツと足音を響かせた。
 第二城郭のもっとも外側、石造りの城壁にへばりつくように建っている平屋の脇に、レンガ造りの狭い階段がある。
 階段を登ると、一階平屋の屋上である。そこには一階よりもやや小振りな家が建っている。
 さらにもうひとつ脇の階段を登る。
 そこにはまたまた同じ、さらに小さくなった建物。そこがルーの家だった。
 立体的に入り組んだ、迷路のごとき造りの場所だが、慣れたルーが迷うことはない。
 木製のドアを押し開き、中へ入る。真っ暗な室内。換気のために小さな穴以外、明かり取りの窓もない。
 手探りで棚の上からロウソクを取り、竈の熾火に近づける。
 ロウソクに火が灯り、室内が薄暗く照らし出された。
 小さな竈に水瓶、ルーが持ち込んだ机にベッド、わずかばかりの食器と本を並べた棚に、これまた小さな衣装棚。ただそれだけの小さな家、というより一間の部屋といったほうが間違いはない。
 扉を入ったすぐ脇に、使用人のための、これまた狭い部屋があるのだが、ルーには使用人などいない。また、小部屋は現在まったく別の目的に使われていた。
 動物脂の絞りカスで作られたロウソクは火が弱々しく、匂いもきつい。
 さきほど子爵邸の夜会で大量に使用されていた樹木ロウとは明るさ、香り、寿命と比べ物にならない。
 利点は街の屋台でいつでも売っていること、それに安い、ということだけだ。
 ルーは黄色の質素なパーティードレスを脱ぎ、これまた質素な、何の染色もしていない綿の部屋着に着替えた。
 夜会で食べてきたので、お腹は空いていない。
 ルーは棚から分厚い本を取り出し、机に広げた。ロウソクの灯りで本に没頭する。
『南方医学随書』
 昔の軍医が、従軍で南方を回った際、現地の人々から見聞、採集した薬草等の効用を記したものである。
 王宮近辺では見かけない、南方独特の薬草で兵士たちの腹下しや皮膚病などを治癒した例が、豊富な実体験と共に語られている。
 王立学問所より、ルーが借り出してきたものだった。
 ルーは一心不乱に目を通しながら、時折り、水鳥の羽を細工したペンで、手元の羊皮紙に走り書きをしていく。
 勉強に集中し、やがて一本目のロウソクが切れかかった頃である。
 外階段をのぼってくる騒々しい足音が響いたかと思うと、乱暴に扉が開かれた。
「いる〜、ルー?」
 賑やかな声と共に飛び込んできたのは、酔っ払ったニコだった。
「今日泊めて〜」
 ニコはそれだけ言うと、ルーの返事も待たずに、扉の脇の小部屋へ入っていった。
 小部屋は、ニコが私物を持ち込み、自分の別宅として使っているのだった。
「聞いてよ、ルー。あなたが帰った後ねえ、新しい客が来たのよ〜」
 乱暴にパーティードレスを脱ぎ捨て、下着だけの姿になったニコが、どさりとベッドに身を投げ出した。
 ベッドひとつ置けば、後は小さな化粧机と椅子しか置けない、本当に狭い使用人用の部屋である。
 ルーは水瓶からコップに水を汲んできて、ニコへ渡した。
「ありがと、ルー」
 ニコはおいしそうに水をひと息で飲み干した。
「ニコの後に来るなんて、よほど家格の高い人なのね。わかった、ロベルト様でしょ? あの方ならあなたの後に来てもおかしくないし。だけどロベルト様ももう四十になられるんでしょう。まだスラリとされてて、いかにも伊達者って感じで、全然老けてはおられないけど、そろそろ身を固められてもいいのにねえ。今日、ニコに求婚されにみえたとか?」
 ルーはいたずらっぽく笑った。
「ぜ〜んぜん外れで〜す」
 ニコは胸の前で大仰に両手を交差させバッテンを作り、渋い顔をして見せた。
「来やがったのは、小娘どもが憧れている独身のナイスミドル・ロベルト様なんかじゃありませ〜ん」
 そういうニコも、ルーと同じ十六歳。
 世間的には十分小娘ではあったのだが。
「ご来訪になりやがりましたのはねえ、私たちよりちょっと年上の、太っちょの男でした〜。爵位はなんと男爵、男爵よ、ルー!」
 ニコは片眉を吊り上げて、ベッドの木枠を拳で叩いた。
「男爵家の分際で、伯爵家の一人娘、このニコ様の後に来やがったのよ!」
 男爵は、伯爵より家格が二枚ほど落ちる。
「よく子爵夫人が中へ入れなさったわね」
「そうよ。それがさあ、な〜んか、昨日田んぼから収穫されました、って感じのジャガイモ野郎でさ。全然マナーとか知らないの。子爵夫人は人が良いからさあ、玄関で一応、家格の高い人が中に入ったら、それ以下の人はもう中に入れないっていう夜会の決まりは教えたらしいの。だけどそれから中に入れちゃったのよ。誰でも初めての時はわからない、間違うものだからって、太ったジャガイモ君を」
「へえ」
「料理は食い散らかす、話しかけられても横柄に頷くだけ、領地や家柄の自慢話は始めるで、もう最低。そんな最低のジャガイモ君だったけど、中でも許せないのがッ!」
 黒髪を逆立てんばかりの形相で、まるでルーがその男であるかのようにニコが迫った。
「このニコ様に、いきなりダンスを申し込んできやがったことよッ!」
「で、どうしたの?」
「自己紹介もしやがらねえで、誰もが自分を知ってるのが当たり前みたいな態度で、身の程しらずにもこのニコ様にダンスを申しこんできやがりやがって」
 ルーは無言で頷き、続きを促す。
「そりゃねえ、私だってレイセン伯爵家の一人娘って立場があっからねえ。『あら、初めまして。わたくしマグリット・レイセンと申します。よろしくお見知りおきを』って、スカートの裾を軽く持ち上げて淑女の礼をしてやったわよ。だけどまあ、そこまでね。横柄に伸ばしてきた手をパチンと叩いてやりたかったんだけどさ。後は私の取り巻き……、コホン、失礼、私が仲良くさせていただいている男性の友人たちがですね、ちょっぴりぽっちゃりした、いかにも純朴そうな、初めての夜会でドキドキしている好青年をですね、カーテンの向こうに連れて行って、お夜会のちょっとした決まりごとなどを優しく教えて差し上げたのでございますよ、オホホホホ」
(それは災難だったことでしょうね)
 ルーは心の中でその男性にも同情した。
 ニコにもう一杯水を飲ませ、着替えさせてからベッドにくるむ。
「明後日、ラスター夫人の夜会には出てくれるんでしょうね、ニコ?」
「ラスター夫人? ああ、こないだルーが言ってたやつね。あ〜、それにしてもこの藁入りの麻布団は落ちつくわ。この青臭い匂いがね」
 大きく息を吸い込み、仔猫のように丸くなるニコ。羽毛に包まれて育ったお嬢様なのに、ルーの庶民的な寝具がお気に入りなのだ。
「そうよ、ニコ。いつも私がお世話になってるラスター夫人に、是非あなたを連れてくるようにと頼まれてるの。お願いするわよ」
「はいはい、可愛いルーちゃんのためなら、たとえ火の中、水の中、客寄せの道化師だろうが、お飾りのお人形さんだろうが、何でもしますよ〜。それじゃあね、おやすみ〜」
 枕に頭を沈めたと思うと、ニコはすぐ静かな寝息をたてはじめた。
 ニコを寝かしつけると、ルーはベッドの足元に立て掛けてある背の高い姿見を覗き込んだ。
 高価な姿見の鏡は、ニコが小部屋に持ち込んだものである。
 正面から自分を姿を映してみて、それから右、左と姿勢を変えてみる。
「フゥ……」
 小さく溜息をついた。
 一人でいる時はそうでもないが、輝く月のようなニコが側にいると、どうしても劣等感を持ってしまう。
(顎の上げ方が違うのかな?)
 ニコのように上品に、と思うのだが、ルーが同じようにしようとすると、暑さで顎を地面につけた犬のようだった。
 どうしても、若杉のようにスラリとしたニコと同じようにはならない。
 ルーは太っているわけでも、痩せ過ぎているわけでない。
 背はやや低いが、スタイルはまあ普通だろう。
(やっぱり生まれ持ったものが違うのね)
 ルーはそう納得するしかなかった。