夜会の子犬と三毛猫姫

3、故郷のお菓子
 ニコを寝かせつけて間もなく、扉が静かにノックされた。
 ルーは音を立てずに小部屋を滑り出し、扉を開ける。
 外には灰色のマントですっぽりと体を覆った三人の男が立っていた。
 各自、両手に重たげな手桶を提げている。
 チャプチャプと水の跳ねる音が、ルーの耳に届いた。
「ご苦労様です。レイセン家の衛士の皆さん」
 ルーがペコリと頭を下げる。
 三人の中で、口髭を蓄えた、少し歳のいった男がスイと進み出た。
「今宵も我が姫君はこちらへお泊りですかな?」
「はい。レイセン家の執事様にそうお伝えください」
「わかりました。ちょっと失礼しますよ」
 ルーが体をよけると、男たちは物音を立てぬよう、遠慮がちに部屋の中へ入ってきた。
 台所の脇にある水瓶の蓋をルーが取る。
 男たちは次々と手桶の水を、水瓶の中にこぼしていった。
「いつもありがとうございます。助かります」
 ペコリと頭を下げる。
「いやいや、ご令嬢に水汲みは大変な仕事ですからな」
「私ひとりではホント、桶に半分くらいしか持って上がれなくて」
「それでは我らは今夜も階下にて待機しております。何かご用がございましたら、ご遠慮なくお申し付けくださいますよう」
「ご苦労さまです」
 レイセン家の衛士が出て行くと、ルーは竈の前に立ち、火掻き棒で熾火をおこした。
 袖まくりをして、棚から布袋に入った小麦粉を取り出す。
 木製のボウルに入れた小麦粉に水と卵を割り入れ、手早く掻き混ぜる。
「きょうは少し寒いかな」
 そう呟くと、ボウルの中に砂糖を大匙で三杯放りこんだ。
 熱くなった鉄板に油を塗り、とろりと卵色になった小麦粉を広げる。
 甘く、香ばしい香りが、ルーの小さな部屋いっぱいにひろがった。
 溶いた小麦粉を、薄く広く塗り伸ばす。
 ひっくり返す必要もなく、小麦粉はすぐに火が通った。
 その上にあらためて砂糖をかけ回し、端からクルクルと棒状に巻き取り始める。
 太めの縄のようになったパンケーキを、今度は蛇のとぐろのようにぴっちりと巻きつける。
 分厚くなったパンケーキをこんがりと焼き、ひっくり返して裏面からもじっくりと火を通す。
 表面がパリパリとなったところで、ルー特製パンケーキの出来上がりだった。
 ルーは熱々のパンケーキを皿に乗せ、六つに切り分けた。
 陶器のポットにお茶の葉を入れ、沸かしていたお湯を注ぐ。
 パンケーキの皿とポットを木製のトレイに乗せて、ルーは外へ出た。
 落とさぬよう慎重な足取りで階段を下りていく。
 一階の階段登り口で、レイセン家の衛士ふたりが、目立たぬよう剣帯をマントですっぽり隠し、油断なく周囲に目を配っていた。
 ひとりいないのは、レイセン家へニコの外泊を伝えにいったのだろう。
「ご苦労様です。お茶をお持ちしました」
「ルシンダ様、いつもお気遣いありがとうございます」
 口髭の男が、ルーからお盆を受け取った。
「熱いうちが良いですけど、冷めても十分食べられますので、お腹が空かれたときにどうぞ」
「かたじけない。ありがたく頂戴いたします」


 トレイを受け取り、階段を登っていくルーの後ろ姿を見送ると、若い衛士が興奮の面持ちで口を開いた。
「こ、これ、食ってもいいんですか、隊長!?」
 涎を垂らさんばかりである。
「ああ、そうか、お前はマグリットお嬢様の護衛につくのは今回が初めてだったな。いいぞ、遠慮なく頂け」
 若い衛士は無骨な指でパンケーキを一切れつまみ上げ、がぶりと噛みついた。
「うまい、うまいっすねえ。俺、すごく腹が減ってたんすよ。まさか、マグリットお嬢様が屋敷に戻られないなんて思いもしなかったから、昼はいい加減に済ませてて」
「おお、それはすまんな。俺が言い忘れていた」
 隊長は笑って詫びた。
「執事殿は、本国からのお言いつけで、マグリットお嬢様の外泊などけっしてお認めにならないのだがな。ここルシンダ様の所でのお泊りだけは、大目に見てなさるんだ」
「へえ、あの頑固頭の執事殿がねえ。よほどルシンダ様は信頼されているんですねえ」
「まあ、そういうことだな。俺も分も食べていいぞ。しかし、一切れくらいは残しておいてくれよ」
「とんでもない、半分コしましょう、半分コ。隊長も今どうです? 熱くてものすごく美味いっすよ、これ」
 若い衛士が差し出す皿から、隊長も一切れ手に取り、口へ入れた。
「うん、美味いな。ルシンダ様の故郷のお菓子だそうだ。今日は少し寒いから甘めにしてあるんだろう。暑い日は塩味になっているんだ。汗を流すと塩気が欲しくなるからな」
「へぇ、気の回るお嬢様ですねえ。それに優しい。俺たちみたいな下っ端の兵士に夜食を作ってくれるなんて。こんな美味いお菓子や料理を作ってくれる嫁さんが来たら最高だろうなあ。マグリットお嬢様はとんでもない美人で、今回の護衛の任は、他家の衛士たちに対して鼻高々でしたけど、ルシンダ様のような方が、俺は嫁に欲しいっすねえ」
「ハッハッハ、お前はまだ若いのに分かったようなことを言うヤツだな。まあ、私もまだ独身ならば、そう思うところではあるがな」
「貴族のルシンダ様と一介の兵士の俺じゃ、身分違いっすかね?」
「ハハ、そうだ、そうだぞ。あまり身分違いな夢は見ぬことだ。と言いたいところだが……」
「だが!?」
 若い衛士が勢い込む。
(ルシンダ様は、使用人のひとりもいない、領地無しの流浪貴族の娘。あるいは……)
 結婚は庶民同士でも両家の資産や家柄など、複雑な事情が絡み合う。商いで小金を貯めた商人ならば、いくら美人でも浪費グセのある嫁など御免被る。車輪造りの職人でも、息子の嫁には働き者を望むものだ。
(貧しい家ならば、娘を少しでも金のある家へ嫁がせたいのが道理だ。現実はそんな甘いものではないが……)
 そんな考えが、ルーの父親の思いをズバリと言い当てていたなど、隊長には知る由もなかった。
(貴族社会の婚礼は、庶民よりももっと冷徹な原理で動く。絶世の美女であるならばともかく、流浪貴族の娘ルシンダ様を嫁に迎える有力貴族はあるまい……)
 隊長は腹の中でそんなことを考えたが、口に出したのは別のことだった。
「ま、人生なにが起こるか分からんということだ。下級貴族のルシンダ様が王妃になることもあるだろうし、お前がルシンダ様を娶る可能性も無いとは言えんのだぞ」
「ちぇっ、現実感無いなあ、ゴホッ、ゴホッ!」
 若い衛士がむせた。
「いくら美味いからって、そんなにガツガツ食うやつがあるか。ほら」
 隊長が差し出したお茶を、若い衛士は目を回しながらグイと流し込んだ。


 ニコのお付きの衛士たちへ食べ物を差し入れると、ルーは再び机に向かい、厚い本を開いた。
 ジジジ、とロウソクの芯が焦げる音が聞こえるほどの静寂。
 ルーは本の文字を目で追う。しかし頭に入ってこない。どうにも集中力を欠いてしまった。ニコがやってきたせいではない。
 故郷のお菓子を作り、当座考えまいとしていた案件が、脳裏から離れなくなってしまったのだ。
 ルーは諦めて本から目を離した。
 背伸びをして頭を振って焦げ茶色の髪を揺らすと、机の引き出しから一通の手紙を取り出す。
 飾り気のない、ザラザラした手触りの便箋。
 二日前に届いた、父からの手紙だった。


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 親愛なる我が娘ルーへ

 元気にしているかい。こちらは先日雪が降りました。王都のほうは暖かい気候が続くことは知っていますが、ついルーが寒い思いをしてはいないだろうか、と思ってしまいます。
 薪や着物は足りているかな。もし不足しているようなら、遠慮なくそう伝えてください。
 父は流浪の貴族で、お前に満足いく生活をさせてやることができません。
 だけど、幸い私を食客として迎えてくださっているブラボゥト男爵は親切な方です。
 お前のことも、実の娘のように心配してくださり、いつもお前の生活に支障がないか尋ねてくださいます。
 さて、今回はルーにお話しておきたいことがあって筆をとりました。
 ブラボゥト家のご次男ボイド様のことは知っているかな?
 もうすぐ二十歳になられる、立派な青年です。
 ルーとは少し年が離れているし、私たちは離れに住んでいました。それに十四歳のとき、お前を王都にやってしまったので、ボイド様のことはあまり覚えていないかもしれません。
 だけど顔くらいは覚えているだろう。
 実は先日、ブラボゥト様から、ボイド様の嫁にお前はどうか? というお話を頂きました。
 私は情けない父親です。失った家格の回復もままならず、食客の身に甘んじています。
 先祖様からの唯一の遺産である、名のある貴族にしか与えられない城郭内の部屋にまだ若いお前を住まわせ、高名な貴族様との交流を通じて名前を、いや、済まない、父はすぐに体裁を気にしてしまう。お前が誰か貴族様のお目に止まりはしないかと期待して、そこに住まわせています。
 娘に縋る、本当に無力で情けない父親です。
 優しいお前は、そんな父の意を汲んでくれて、毎回あちこちの夜会に出席にしてくれて、そのことを報告してくれる。
 本当に有り難いと思っているよ。
 同時に、お前が積極的に夜会へ出てくれているのに、なかなか殿方の話は出てこない。
 私が家格を失い、それがためにお前が本来得られるべき多くの機会を失っているのだと思うと、父の胸はお前の手紙を見るたび、嬉しさとともに、哀しみで胸が張り裂けそうです。
 遠い地で一人、そんな辛い思いをさせているお前のことを思うと、今回のご縁談は大変良いもののように父は思います。
 ブラボゥト様は爵位こそ高いとは言えませんが、広大な領地を保有され、その力はけっして中央の貴族様たちに負けるものではありません。
 家督は長男に継がせるそうですが、次男のボイド様にもそれなりの処遇をされるとのこと。
 そのボイド様の嫁のお前を、と。
 まだ返事はしていません。お前の気持ちはどうでしょう?
 たった一人の王都での生活がツライのなら、父としては喜んでこのお話を受けたいと思っています。
 即答が難しいようでも、どんな気持ちなのか、その辺りだけでも次の手紙で知らせてくれると、父は嬉しいです。

 父より永遠の愛を。
 我が娘、可愛いこげ茶色の子犬、ルーへ

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