夜会の子犬と三毛猫姫
4、王子様、夜会へ
太陽が中天からわずかに西へ傾き始めた、まだ真昼と言ってもいい時刻。
ルーはノンビリした足取りで、今宵の夜会会場となっているラスター夫人の屋敷へ向かっていた。
出席を頼んでいたニコは、宴の最中に顔を出すことになるだろう。なにしろレイセン伯爵家の令嬢という高い家格を持つニコである。彼女が早々に夜会に顔を出しては、後からきた下級貴族が困ることになる。
ラスター夫人邸前に、商人たちの馬車が列をなしていた。
蜂蜜壷や卵、野菜の行商人の群れを、ラスター家の使用人たちが額に汗して半ば怒鳴るようにして捌き、戦場のような喧騒である。
今宵は夜会。御用商人たちへ注文があるのは当然ではあるのだが……。
玄関の喧騒をすり抜けて中に入り、何事かと様子を見ていると、部屋の奥からラスター夫人が太った体を揺すりながら、忙しない足取りで現れた。
「こんにちは、ラスター夫人。お手伝いのため、早めに参りましたわ」
「おお、おお、ルー。よく来てくれました」
ラスター夫人は小柄なルーに抱きついた。
「どうしたのですか、ラスター夫人。ずいぶん慌しいようですが」
「おお、ルー、とんでもないことになったのよ。全然そんな気はなかったんだけど、まさかこんなことになるなんて……」
混乱しているラスター夫人の話は主語が抜け落ち、なかなか要領をえなかったが、ルーはじっと聞いていた。
「王子様が、出席の返事をなさったのよ」
「まあ」
ようやく話の核心を聞くと同時に、ルーは驚きのあまり、声がうわずった。
「夜会を開くときは、国王陛下ご夫妻を初めとして、王室の方々すべてに招待状を出すのが決まりですからね。まあ、実際に来られることはないし、これまでも来られたことはないのだけど。こんなちっぽけな私の開く夜会ですものね」
それは謙遜でもなんでもなく、本当のことだった。
すでに夫を失くし、爵位も無いラスター夫人の夜会に、王族が出席することはない。
伯爵家のニコも、ルーが頼まなければ顔を出すことはない。
家格の高い者が、家格の低い者が主催する夜会へ出席することは、何か特別に個人的なつながりでもない限り、普通はないのである。
国王をはじめとした人々に招待状を出すのは、この夜会は秘密でもなんでもなく、謀反を企むなどのことは一切ありませんよという、政治的謀略がはびこっていた血生臭い時代の名残りに過ぎない。
それが、第四王位継承権者であるヴォルデニク王子が、突如ラスター夫人の夜会に出席するという。
「夫人はヴォルデニク王子とお親しいんですか?」
「まさか」
夫人は大きくかぶりを振った。
「私はもうこの年ですからね。お若いころの国王陛下ご夫婦ならば、昔の国王主催のお夜会で挨拶くらいはしましたけどね。そのお子様、四人の王子様のことは、お名前以外には何も知りませんよ」
ルーが王都に来て二年、国王主催の夜会が開かれたことはない。仮に催されたとしても、父不在で母親もいない下級貴族のルーが呼ばれることなないだろう。当然、王室に連なる人間など知らない。国王陛下の顔も肖像画で見たことがあるくらいだ。
「ラスター夫人、招待状はどれくらい出されたのですか?」
「王室宛てのものも含めて五十通ほどですよ。普段はそれでも出席されるのは十五人から二十人くらいといったところですけど。王室の方々はもちろん出席されたことはないし」
「今日は王子様の話を聞きつけて、皆さん出席なさるでしょうね。おそらく招待状を頂いてない方も、大勢来られると思いますが」
「そう、それなのよ、ルー。あなたも知ってのとおり、ちっぽけな私の屋敷の、台所に毛の生えたような広間なんて、三十人も入ればもうギュウギュウで、ダンスするにもそれこそ右手と左手に別々のパートナーの手を握ってなきゃいけないほどでしょう。とても招待状を出した方以上の人数を受け入れる余裕はないのよ。普段は逆で、あんまりにもスカスカだから気を揉まなきゃいけないのに」
だからこそ、ラスター夫人はニコを連れて来るよう、ルーに頼んだのだった。
華やかな美人のニコが出席すれば、おのずと若い男たちもついてくる。
半ば隠退したような貴族のラスター夫人だったが、賑やかなことが大好きなのだ。
しかし、今回はいささか賑やか過ぎる。
「テラスの柵を取り払って、庭も会場にできるよう造作してはいかがですか。そうすればあと三十人ほどは入れるでしょう」
「おお、それは良いアイデアね。すぐに出入りの庭師を呼ばなくちゃ。ありがとう、ルー。あなたが来てくれて本当に心強いわ」
ラスター夫人はルーの腕に取り縋りながら礼をいった。
「それでは私、お台所を手伝いますね」
ルーが台所に入ると、五つある竈はすべて火が入り、鍋の中でジャガイモやカボチャが熱々の湯気を立てていた。
まな板の上には、切り刻まれた野菜や肉が、所狭しと並べられている。
しかし、人は誰もいなかった。
五人しかいないラスター家の使用人たちは、行商人の整理や広間の飾りつけ、庭の造作に駆り出されていたのだ。
ルーはドレスの袖を捲くり上げ、まずは薪オーブンの中から、チリチリと焦げているパイ包み焼きの器を引っ張り出した。
陶器の蓋を取ると、焦げた砂糖の甘い香りが部屋いっぱいに広がる。
真ん中に包丁を入れてみる。少し火が通り過ぎているようだが、問題というほどのものではない。
ルーは包み焼きの器を濡れ布巾の上に置き、今度は竈の前に走った。
ズラリと並んだ鉄鍋の中でグツグツと煮える野菜や肉を、次々と手際よくひっくり返す。
ルーが孤軍奮闘する台所に、ヨタヨタと入ってくる人影があった。
ひと抱えもある大きな壷を、上体を後ろに反らし、お腹に乗せるようにして男が持ってきたのである。
「す、すみません。この砂糖壷、どこに降ろしたらいいですか?」
ルーと同年輩ほどに見える若い男は額に汗を浮かべ、壷を抱える手をブルブル震わせ、歯を食いしばっている。今にも壷を落っことしてしまいそうだ。
ルーは鍋を掻き混ぜていた手を止めて、男の元へ駆け寄った。
男の反対側から、しっかと壷を持つ。
「こっちにお願いします」
ルーの誘導で、男は食器棚の脇にようやく重い壷をおろすことができた。
ルーは壷の口に張られていた麻布をはぎとり、中身を確認する。
(あら?)
中には、ザラザラした褐色の黒砂糖がいっぱいに入っていた。
そこへラスター夫人がやってきて、ルーの後ろから壷の中を覗いた。
「あらまあ、私はこんな黒砂糖じゃなく、上等の白砂糖を買ってきてって頼んだのに! あらあら、男の人は台所では昼寝してる猫より役に立たないってのはホントね。まあいいわ、その黒砂糖は使用人たちが食べるお菓子の材料にしましょう」
「す、すみません」
若い男は、オドオドとラスター夫人に頭を下げた。
「そこだと湿気があがってくるわ。今は邪魔にもなるし、棚の下段にしまっておいて頂戴」
男は言われたとおり、砂糖壷を棚に収め、フウと息をついて額の汗を拭った。
「ああ、ルー、こちらの方を紹介するわね」
紹介?
ルーはそこで初めて若い男が綺麗な青い絹製の、高価な上着を羽織っていることに気が付いた。
下男や行商人のいでたちではない。
「こちらは……、ええと、あなた、何ていうお名前だったかしら?」
「ペイトンと申します」
青年は礼儀正しく頭を下げた。
短く刈り込んだ濃い赤毛が、フワリと揺れる。
「そうそう、ペイトンさんね。ペイトンさんはね、お夜会が初めてらしくて、ダンスも踊ったことがないそうなのよ。それでお夜会が始まる前に、ダンスを教えて欲しいって、少し前からここへいらっしゃったの。そりゃあね、いつもなら喜んで教えてさしあげるんですけどねえ。ほら、今日はとてもそれどころではないでしょう。男手はいくらでも欲しいところだし、ちょっと使い走りに行ってもらってたのよ。そうだ、ルー。後でちょっと手が空いたら、ペイトンさんにダンスを教えてあげてね」
「ええ。私もダンスが得意とはいえませんけど、喜んで」
「それでいいわね、ペイトンさん」
ペイトンは深々と頭を下げた。そしてルーのほうへ向き直る。
「よろしくお願いします、ええと、ル、ルー様?」
「ルシンダと申します、ペイトン様。ルーとお呼び捨てくださいませ」
ペイトンはニコリと笑った。
「よろしく、ルー。それでは僕のことも『ペイトン』とお呼びください」
若者の屈託ない立ち居振る舞いに、ルーは好感を持った。
間もなく王子出席の話を聞きつけ、ラスター夫人と仲のよい他家の夫人たちが、それぞれの使用人を引き連れて加勢にやってきた。
ようやく手の空いたルーは、邪魔にならぬよう夜会会場の片隅に所在無げに立っているペイトンを見つけた。
「お待たせしました、ペイトン」
ルーはペイトンの手を取ると、台所へ戻った。当座の料理準備は終わっていたし、他に余裕のあるスペースがここしかなかったのだ。
ルーは基本のワルツから教え始めた。
ダンスをしたことがない、というのは本当のようで、ペイトンの足捌きは相当にぎこちなく、何度もルーの足を踏みそうになる。
腰に回されたペイトンの手の平が、緊張でじっとりと湿っているのをルーは感じていた。
鍋がグツグツと煮える音が伴奏の台所の片隅で、ゆっくりと、静かにステップを刻むルーとペイトン。
通りがかる使用人たちは、そんな初々しい二人のぎこちないステップを、暖かい視線で見守っていた。
「ルーは踊りが上手ですね」
少し余裕の出てきたペイトンが、ルーの腰に手を当てたまま囁いた。
「そんなこと……。でも家にいた時は、よく父を相手に踊ってましたわ。お誘いはなかなかありませんけど、踊るのは好きなんです」
「僕はルーに謝らなければなりません。最初、僕はルーのことをラスター夫人の使用人だと思ったんです」
「フフフ、それはお相子さま。私もペイトンのことを、砂糖売りの行商人だと思いましたから」
ルーはいたずらっぽく笑った。
「ルーは料理はできるし、踊りも上手。ラスター夫人もずいぶん頼りにされてるようです。それに比べて僕は夜会のイロハのイも知らない。ホント、勉強ばかりしてたもので……」
「初めてだからといって、緊張されることはないわ、ペイトン。決まりといっても、ほんの少ししかないんですもの。そういえば、先日、私のお友達がこんなことを言ってましたわ」
ルーは、酔っ払ったニコが先日話した、田舎からきた青年貴族の失敗談を語って聞かせた。
ニコがジャガイモ君と評した男性は遅れてきたが、初めてだからという理由で子爵夫人は中へ入れてあげた。
初めての失敗に寛容な人は多い、だからあまり気にしなくてもよい。
ルーはそう伝えたかったのだが、途中、ペイトンが体を固く強張らせたことには気が付かなかった。
「少し休憩しましょうか。私、何か飲み物を頂いてきますね」
「あ、あの、ルー、僕は……」
手を離したルーに、ペイトンが追い縋ろうとした。
その時、まだ昼間の明るい室内に、パッと暗闇の星空が現れた。
台所に現れたのはニコだった。
「あら、もう来たの?」
ニコはドレスではなく、裾の長い絹のコットの上にヴェールを羽織っただけの普段着である。
「ルー、あの噂、ホントなの? 私、自分で確かめにきたのよ」
ニコの頬が興奮で赤くなっている。
「ヴォルデニク王子様のことね。ラスター夫人が仰ってたわ。本当よ」
「わお!」
ニコはピュッと口笛を鳴らした。
「本当なのね。国王陛下主催の夜会以外に、王室の方が出席されるなんて滅多にないことよ。ところでルー、こんなとこで何してるの?」
ニコが、ルーから視線をペイトンに移す。湖のように蒼い瞳に、わずかに警戒の色が浮いている。
「ああ、ニコ、紹介するわ。こちらはペイトン様。今夜の夜会に出席なさるの」
ルーはドキドキしながらペイトンを紹介した。
ドキドキするのには、ふたつ理由があった。
ひとつは、男友だちが多く、厳しい異性鑑定眼も持つニコが、自分が好意を持っているペイトンをどのように評価するか。
もうひとつは、ペイトンがニコを見た瞬間心を奪われてしまい、自分など眼中に無くなるのではないか、という心配だった。
後者のほうは、残念ながらこれまで何度も起こったことであった……。
「はじめまして。マグリット・レイセンと申します、ペイトン様。よろしくお見知りおきを」
スカートを軽く持ち上げて、貴婦人の礼をするニコ。
「よ、よろしく、ペイトンと申します」
ペイトンはぎこちなく頭を下げた。社交場の挨拶の慣れていないのは明らかだった。
「マ、マグリット様なのに、ニコ(三毛猫)という呼び名は、お、お珍しいですね。普通は“メグ”や“マギー”に、な、なると思うのですが」
しどろもどろながら会話をつなぐペイトン。
「フフ、それはですね、こちらのルーも知っていることですが、私が十四歳で初めてのお夜会のとき、三毛猫の扮装をして出席したからですわ。それ以来、皆様わたしのことを“ニコ”とお呼びになります。ペイトン様もどうか、そうお呼びください」
ニコが人を逸らさない、柔和な笑顔を浮かべた。
この微笑みの意味を、ルーは知っていた。
ニコが興味を持ち、その人を心を掴みにかかった時は、もっと真顔で「どちらから来られたのですか?」「ご趣味は?」などと質問が続く。
ニコのような美女に興味を持たれたと思うと、人間、特に若い男に有頂天になるものだ。
ニコが笑みを浮かべただけで終わった。すなわち、ペイトンはニコの中ではその他大勢に分類されてしまったのだ。
(さて、こちらは……)
ルーはペイトンとチラと横目で見た。
相変わらず緊張してはいるようだが、茫然自失となっているわけでない。
ニコを見た瞬間、いわゆる“カミナリが落ちた”という、今まで何度も見てきたパターンとは違うようだ。
(とりあえず、ニコに一目惚れってことはないかな)
ニコに惚れたなら惚れたで仕方ない。人の心を縛ることなど出来はしないのだから。
とはいえ、ひとまず胸を撫で下ろしたルーなのだった。