夜会の子犬と三毛猫姫

6、ニコのヒミツ計画
 王立学問所は、第一城郭内の東側に位置している。
 第一城郭内は王室の居住区である。
 相当に高位の貴族でなければ立ち入れない区域だ。とはいえ、いつくか例外もある。
 例外のひとつが、王立学問所に通う学生である。
 支給されている学生札を見せれば、小さな石造りのアーチから、門衛が通してくれる。
 ラスター夫人邸の夜会から三日後のお昼。
 分厚い威圧感ある岩で組み上げられた第一城郭の、学生用の小さなアーチから第二城郭へと出てきたのは焦げ茶色の髪のルーだった。
 両手に埃の匂いのする重たげな書物を二冊抱えている。
「ご苦労様です」
 ルーが、アーチの両側で矛を持って構える門衛に軽く頭を下げる。
 真面目に学問所へ通うルーは、門衛たちに顔を覚えられており、入る時も出る時も学生札の提示を求められることはなかった。
 アーチを出るとすぐ、ルーは後ろから軽く肩を叩かれた。
「やあ、ルー」
 振り返ったルーの目に、鮮やかな赤毛が飛び込む。
「まあ、ペイトン」
 ルーは驚いて、持っていた書物を取り落としそうになった。
 慌ててペイトンがそれを受け取り、自分の手に抱え込む。
「ここにいれば君に会えると思って、ずっと待ってたんだ」
 ペイトンは飾り気の無い朴訥な口調でそう言うと、ペコリと頭を下げた。
「先日はごめんなさい。突然消えちゃったりして。失礼だとは分かっていたけど、ルーに教えてもらって、僕はまだ夜会の決まりなんて全然知らない、場を白けさせるだけの粗野な男だってわかったんだ」
「まあ、そんなこと! 誰だって最初は勝手がわからないんだから、遠慮しなくてもよかったのに」
「ハハ、うん、そう言われるとそうなんだけどね。こないだはつい……。この本はずいぶん重いようだ。僕が運ぶから、よかったら、ルー、歩きながら話しませんか?」
 昼下がりの明るい陽射しの中、貴族たちの住むレンガ造りの道を語りながら歩くのは、思いもかけない楽しい散歩となった。
 ペイトンは城下町で学問を教える私塾の学生だという。
「シマン・ホゥ私塾、聞いたことがありますわ。ホゥ先生はとても立派な方で、新しい農業の技術を教えてらっしゃるとか?」
「ええ、そうなんです。ホゥ先生は厳しいんでけど、授業中に変なことを言い出すひょうきんなところもあって、とても尊敬できる先生です。乾季に強い農作物を研究してらして、僕もいま一生懸命学んでいるんですよ」
「ペイトンは家のほうは、あら、ごめんなさい。お互いまだお家の紹介してませんでしたね。私はルシンダ・ナルカ。ナルカ家の一人娘です」
「ナルカ?」
 思い出そうと額に皺を寄せるペイトンを、ルーが笑って制した。
「フフ、ご存じないのも無理ありません。もう祖父の代には領地を無くした、流浪の、貴族とも呼べない貴族ですから」
「ハハ、僕もですよ、ルー。ボーマス子爵なんて号はありますが、ホントに名前だけ。長男でもありませんし、ですから自由に私塾へ通わせてもらってるんです」
 ボーマス子爵などという号は、ルーは本当に聞いたことがなかった。
「僕は、学校を出たら爵位は継がず、家の家系からも外してもらって、北方の貧しい国々に農業指導にいきたいと思ってるんです」
「まあ」
「王都近辺の、放っておいても豊かな実りが期待できるところではなく、もっと厳しい気候の、ちょっとした気候の変化ですぐ飢えが襲ってくるような、そんな辺境に住む人たちを助けたいんです。ホゥ先生ともいつも話をして、そのための品種の研究も進めています」
「まあ、立派だわ、ペイトン」
 ルーの尊敬の眼差しに、ペイトンは顔を赤くして俯いた。手にしていた書物を見て、話題を変える。
「この本は、ふたつとも薬草学に関するものですね。この手の学問は、たしかに王立学問所にしかない。ルーは医学を志しているんですか? その……、貴族のお嬢様なのに?」
「志す、というほどのものではありません。父は私を王都に送りましたけど、期待していたのは学問ではなく……、あの、その……」
 身分の高い婿を見つけて玉の輿に乗ることだ、とは言えず、ルーはお茶を濁した。
「父が求めたのは社交を広げることなんです。ですけど、私は昔から本の虫で、父をがっかりさせてます。ニコには感謝してるんです。なにかと私を夜会に誘ってくれて、おかげで父に書く手紙の内容に困ることはありませんから」
「ニコって、こないだ紹介してもらった、すごい美人のお友だちですね」
「ええ、ニコは……、フフ、私とは逆なんですよ。滅多に顔は出しませんけど、ニコも私と同じ、王立学問所の学生なんです。お父上のレイセン伯爵からはしっかり勉強するように、と送り出されたそうなんですけど、夜会が大好きで。でも無理ありませんわね。あれだけの美人ですから、どこからも来てくれることを望まれますし、本当どこへいっても主役になれますから」
「なるほど」
「レイセン家の執事様もその辺は気を揉まれていて、ニコが私と仲良くするのは、身分は相当違いますけれども、お許しくださってるんです。私と一緒にいると、たま〜にですけど、ニコも学問所に顔を出す時がありますからね」
 二人は声をあげて笑った。
 楽しい散歩の時間は瞬く間に過ぎ去り、二人は三階のルーの部屋の前に着いた。
 ルーはお茶でも、と誘ったが、ペイトンは女の人の部屋には入れない、と頑なに断った。
 しかし、もっと話をしたいのはペイトンも山々だったようである。ルーは部屋の中から椅子を二脚持ち出した。椅子を踊り場に据え、レンガ造りの街並みを見渡しながら、二人はいつまでも熱心に、農業技術者になりたい、医者になりたいという互いの夢を語りあったのだった。


 それから一ヶ月、ルーとペイトンは毎日のように会い、互いの勉強について語り合った。
 王立学問所から出る第一城郭アーチ外側でペイトンが待っていることもあったし、ペイトンが直接ルーの部屋の扉を叩くこともあった。
 ルーはそのうち、城下町のシマン・ホゥ私塾へ、ペイトンの紹介で顔を出すようになった。
 ペイトンは、三階建てのシマン・ホゥ私塾の屋根裏部屋に寄宿していた。
 ホゥ先生をはじめ、農業に熱意を燃やす学生たちが集っており、そこでの語らいは、ルーにとっても、ペイトンにとっても、とても充実して楽しいものだった。
 そんなある日、ペイトンが私塾の教室にひとり居残って、調べ物をしていた時のことである。
「おい、ペイトン、女のお客さんだぞ」
 男友だちの一人が、興奮の面持ちでペイトンに声をかけた。
「お客さん、女?」
 目を通していた本から顔を上げる。今日はルーは王立学問所へ行っているはずだ。
 ルー以外、自分を訪ねてくるような女友だちはいない。
「ああ、すごい美人だ。目が覚めるような美女っていうのは、ああいうのを言うんだな。黒髪がまるで星空みたいでさ」
 ペイトンはすぐに席から立ち上がった。
 友人に促されるまま私塾を出る。
 裏通りにある私塾の細い通りから、大通りに出てすぐ左手に、細かな象嵌が施された馬車が止まっていた。
 頑丈さだけが売りの商用馬車とは違う、華奢な造りの、ひと目で貴族のものとわかる車である。
 馬車の傍らに、目立たぬよう大きめで地味なショールを纏い、しかしその漆黒を黒髪までは隠せないでいるのは、ペイトンの予想どおり、ニコだった。
「こんにちは、ニコ様。まさかこんな所にいらっしゃるなんて!」
「ご無沙汰しております、ペイトン様」
 ニコは素っ気無い口調で軽く頭を下げた。それから仏頂面で無言になる。
 女性に疎いペイトンだが、ニコの機嫌がよろしくないことはすぐに悟った。
 来訪者は機嫌よくせねばならないという決まりはないものの、かといって不機嫌そうに黙り込まれると、ペイトンに打つ手はなく、ただもう笑みを浮かべながらながら黙って待つしかなかった。
 やがて、ニコは顔を斜めに向けて、いかにも不承不承といった風情で口を開いた。
「単刀直入に聞くけど、あなた、ルーのことが好きなの?」
「え、ル、ルーのことがですか、え、えっと……」
 ペイトンとニコは以前夜会で挨拶を交わした程度で、直接のつながりはない。なにかルー絡みの用件であろうとは予測していた。しかし、あまりにも単刀直入な問いに、ペイトンは言葉をつづけることができなかった。
 俯き、視線を切ってしまう。首筋から頬に火のついたような熱気を感じ、ペイトンは自分が真っ赤になっていることを自覚した。
 ニコには、それだけで十分だったようだ。
「ルーに結婚話が持ち上がっていて、婚約のため田舎へ戻るばかりになっていることは知ってる?」
「え、ええッ!」
 ペイトンは狼狽で声がうわずった。初耳である。ルーはそんなことを匂わしたこともない。
「聞いてないのね。まあいいわ。まず言っておきますけど、私はあなたの味方です」
「は、はあ……」
「その前にひとつ聞かせて。あなた、一応貴族なんでしょ。なぜこんな所にいるの?」
「え、えっと、僕は農業が学びたくて、王立学問所では、実践的な技術は教えてないんで……」
 ニコは片手をあげて、ペイトンの話を制した。興味をなくしたらしい。
「何か複雑な事情があって、大貴族の若様がこんな所に身を隠してるのかも、とも思ったけど、そうじゃないならいいわ。私はあなたの味方。そしてペイトン、あなたは三日後の夜会で、ルーに結婚を申し込みなさい」
「え、えー!」
 ペイトンは、今度こそ本当に素っ頓狂な声を街中に響かせた。
「で、でも」
 話の展開についていけないペイトンを、ニコはキッと睨みつけた。
「でももかかしもないわ。このままじゃルーは田舎に帰っちゃう。とりあえず婚約のためだけ、と言ってるけど、一度帰ったら戻ってこられるわけがない。ルーはあなたのことを楽しそうに話すし、好きみたい、いや違うわね」
 ニコは美しい顔の眉間に皺を寄せて言い直した。
「まあ、少しは好意を持ってないわけではなさそうだし、あなたに頼むのがいいと思ったのよ。一応は貴族なんだし、あなたから結婚を申し込まれれば、向こうの、あんちくちょうは断っても構わないでしょ」
 嫌そうにあんちくしょうと吐き捨てるニコを見て、ペイトンは心の中でクスリと笑ってしまった。
 美人過ぎて現実感を感じなかったニコに、初めて人間らしい感情を見ることができたと思ったのだ。
「でも、僕とルーは好き、というか、あくまで気の合う友人同士ですし、それに僕が突然結婚なんか切り出して、ルーがどう思うか……」
 結婚の申し出に面食らって、どう断わったらいいのか思案顔のルーを姿を想像すると、ペイトンは目を瞑ってその場から逃げ出したい衝動に駆られた。
「まあ、ルーが嫌がったら、その時はその時よ。田舎に帰らせない、別の方法を考えましょう」
 ペイトンの気持ちに関しては他人事のニコは、気楽そうにそう言った。
「それにルーの婚約話をあなたは聞いてないと知って、その、正直に言わせてもらうけど、私はホッとしたわ」
「と、いうと?」
 ペイトンは困惑した。
「だって、そんな大事な話をしてないってことは、ルーにとってあなたはそれくらいものだってことでしょ」
 そう言うと、ニコは愉快そうに笑った。
 結婚を申し込めだの、しかしそんな間柄じゃないことに安心しただの、ペイトンにはわけがわからなかった。
 とはいえ、ルーの親友であるニコに、ぐっと親しみを感じたことに、ペイトンは不思議な思いを禁じえないのだった。