夜会の子犬と三毛猫姫

5、三毛猫の遠吠え
 大きさの異なる弦楽器を操る三人の楽士が、甘い音色を紡ぎだす。
 あちこちで酌み交わされる葡萄酒が、官能的な香りを広間に充満させていた。
「なかなか来ないわね、王子様」
 葡萄酒のグラスを左手に持ったニコが、傍らのルーに声をかけた。
「そうね」
 ルーは上の空で相槌を打つと、広間をキョロキョロと見渡した。
 ラスター家の広間はもう一杯だった。
 急遽開放した中庭を含め、百人近くは入っているだろう。
 これ以上入れては、肝心のダンスのスペースが無くなってしまう。
 ルーやラスター夫人の心配どおり、ヴォルデニク王子の出席を聞きつけた貴族たちは、我も我もとラスター邸に押しかけた。
 王室と少しでも知己になりたい、という願いである。
 希望するものすべてを受け入れては、ラスター邸の天井裏まで開放しても収まりきれるものではない。
 一計を案じたルーはラスター夫人に助言し、伯爵家の一人娘ニコを早々と会場に入れてしまう、という手を打った。
 ニコを入れてしまえば、爵位無しの下級貴族はもちろん、子爵、男爵位のものでも、玄関先でお引き取り願うことができる。
 この作戦が功を奏し、来場者をギリギリいっぱいのところで抑えることができたのだった。
 ルーが落ち着かなげに広間を見渡しているのは、王子を探しているのではなかった。
 ペイトンの姿が見えないのだ。
『王子様がみえるのに、そんなドレスじゃだめ』というニコに押し切られ、調理で油の跳ねたドレスを別のドレスに着替えて戻ってくると、ペイトンの姿はもうなかった。
 共に着替えに戻ったニコはもちろん、ラスター夫人や使用人も知らないという。
 いつの間にかいなくなったようだ。
 戦場のような騒ぎで準備していた最中である。
 ペイトンがいなくなったことに誰も気付かないのは無理もなかった。
 そんなルーの袖を、ニコが軽く引っ張った。
「ねえ、ちょっと、あれ」
 ニコがそっと囁き、その視線の先にいたのは、王子ではなかった。赤毛のペイトンでもない。
「あれがほら、こないだ子爵の夜会にきたジャガイモ君よ」
 先日、ニコがルーの部屋で罵倒した礼儀知らずの若者が、テーブルの脇で食べ物を物色していた。
 太った体をゆさゆさと揺すり、両手に鳥の腿肉を持っている。
 綺麗に真ん中で分けた金髪が貴族然としていなくもなかったが、おおよそのイメージで言えば、まさにニコの言うとおり“ジャガイモ君”であった。
(あら、どこかで見たような……)
 そう考え込んだ刹那、ルーはスカートを捌きながら、その男を元へスルスルと近づいた。
「な、なに!?」
 慌ててニコも付いてくる。
 ルーは“ジャガイモ君”の前に立つと、スカートをつまみ上げて貴婦人の礼をした。
「ご無沙汰しております。いつも父ともどもお世話になっております。ルシンダ・ナルカでございます、ボイド・ブラボゥト様」
 男は目をパチクリさせている。そして思い出したのか、横柄に頷いた。
「ああ、お前か、ルシンダ」
「はい、ご無沙汰いたしておりました」
 ルーは顔を下げ、身を低く持したままである。
「ふん、相変わらずのヘンチクリンな髪だな。おい、ルー、ルーって呼ぶぞ」
「はい、ボイド様」
「一ヶ月、僕は王都にいるからな。それから一緒に帰るぞ。お父様の言いつけなんだ。聞いてるだろ、お前が僕の婚約者だってことは」
 ニコが息を飲む音が、後ろから聞こえてきた。
「言っておくけどな、婚約者だからって僕に横着な態度は取るなよ。今みたいにおとなしく僕の言うことを聞いてればいい」
 ルーは無言で頷いた。
「僕はブラボゥト屋敷に泊っているからな。言うまでもないが、僕がここにいる間中、お前は屋敷に来たり、ましてや僕との婚約のことなんか言うんじゃないぞ。僕はやっとあの窮屈な、いるといえば疲れきったロバか、やかましい雌鶏みたいな田舎者しかいない土地から、僕に相応しい都会へ出てきて、十分に遊ぶんだからな」
「はい、かしこまりました、ボイド様」
 ボイドは満足の態で頷き、右手に持っていた腿肉をぺロリと平らげると、指に脂をつけたまま女中からワインを奪い取り、ひと息に流し込んだ。
「フー、それにしても王都ってのは都会のはずだけど、ローリーとかジグとか、上品ぶってるか、騒がしいだけのダンスしか踊らないんだなあ。僕は国ではソーシルの名手と皆に言われているんだ。なあ、知ってるだろ、ルー?」
 十四の時から王都に移り、ボイドとは夜会で踊ったことはおろか、ほとんど会ったことすらないルーではあったが、おとなしく頷いた。
 ソーシルという踊りが、足腰が弱くなった老人か、軽やかにステップが踏めない腹の出た中年専用の踊りであることはおくびにも出さない。
「ソーシルこそ、男らしく、かつ優雅で上品な紳士の踊りさ。国じゃ皆、僕の踊りを褒め称え、女たちは貴婦人から端女まで、みんな僕と踊りたがるんだぜ。ねえ、君、えっと、なんて言ったっけ?」
 ボイドは無作法にもニコを指差した。
「レイセン伯爵家のマグリット様ですわ。ボイド様」
 ルーがニコを手の平で指し示して、改めて紹介する。
「ああ、そうそう、マグリットだったね。こないだは踊り損ねたけど、今日は僕が、君と最初に踊ってあげてもいいんだぜ」
「ありがとうございます。ダンスのお誘い、大変嬉しゅうございます」
 夜会で社交の修羅場の場数を踏んでいるニコは、ルーがのちに心から感嘆したことに、彼女にとって急転直下のこの状況でも顔色ひとつ変えず、優雅にスカートの裾をつまみ上げ、淑女の礼をした。
「けれども今日は王子様がご出席なさるとのこと。私などを最初の相手お誘いなさるとは思えませんが、もしご王子様に踊りを申し込まれた場合、夜会の決まりとしてお断りできません。王子様がお相手を決められた後、改めてお申し込み頂ければ、喜んでボイド様のお相手をつとめさせて頂きとうございます」
「アッハッハ、君は見かけは軽そうなのに、決まり決まりって随分ウルさいんだねえ。まるで僕の領地の口うるさいばあ様たちみたいだよ。アッハッハ」
 ボイドは再び両手に鳥の腿肉を持ち、大口を開けて馬鹿笑いをした。
 ルーはそっと隣のニコを盗み見た。
 ニコは両目を軽く閉じたまま、人形のようにおとなしくしている。
「それにそう卑下することもないぜ。君はまあ見られるほうさ。そのカラスみたいな黒髪は僕の好みじゃないけどね。僕は華やかな、光るような金髪が好きさ。ルーの髪は、金髪をフライパンで焦がしたみたいにチリチリでこげ茶色だけどね。アッハッハ」
 自分の言った冗談がよほど気に入ったらしく、ボイドはさらに馬鹿笑いを続けた。
「あ、それと、これは親切で言うんだけど」
 ボイドは手にしていた腿肉をガブリと食いちぎると、口元を脂だらけにしながらつづけた。
「君、ええっと、マグリットだったっけ。少し友達を選んだほうがいいぜ。君の周りでたむろしていた連中、こないだ僕に何をしたと思う? 部屋の外へ僕を連れ出して、胸倉を掴んで『礼儀を学んで、もう一度出直して来い』なんて凄むんだぜ。あんな古臭い踊りしか知らない連中が、領地じゃソーシルの名手として知られるこの僕に対して」
 ボイドはそう言って自分の胸を腿肉でドンと叩いた。高価な更紗のシャツが脂まみれになったが、気にする素振りもない。
「これは決闘しかないと思ったよ。ああ、ホントに思ったさ。僕のレイピアーの腕は、領地の師範が『百年に一人の天才だ』っていつも言うほどスゴイんだ」
 ボイドは、なかば骨だけとなった腿肉をレイピアーに見立てて、振り回して見せた。
「だけど、まあ、勘弁してやったさ。向こうの人数にビビッたわけじゃない。逆さ。あの人数で、たった一人の僕にコテンパンにやられたとなったら、やつらの立場がないだろ。まあ、紳士として、不当な行動にも、果敢に耐え忍んだってわけさ」
 ルーは再びニコを盗み見た。
 ニコは今度は両目を開けていた。
 表情は蝋人形のように生気がない。顔色は白いのを通り越して青白くなっている。
 ニコは本来奔放な性格だが、自分を抑えることは知っている。
 自分自身のことは、いかにバカにされようと、顔色ひとつ変えず、いや、笑顔を浮かべてさえ対応できるだろう。
 しかし、友人をバカにされてまで、黙っているニコではない。
 とはいえ……。
 ここはラスター夫人の屋敷である。
 王子の来賓で集まっている人々の前で騒ぎ出すことは、自身の品格を損ねるだけでなく、ラスター夫人の顔に泥を塗ることにもなろう。
 生気のないすました表情の一枚下で、吐き出すことのできない怒りが、沸騰寸前の鍋のごとく蠢いているのがルーにはわかった。
「じゃあ、僕はもう少し向こうで食事してくるとしよう。踊りには体力が必要だからね。あっちのテーブルのほうがウマイものが並んでるみたいだ。まったく、こういう夜会を開くなら、すべての席の料理を同じように並べるのは、主催者の最低限の務めというものなのに。じゃあ、その王子様とやらが最初の相手を決めた後、また来るから。最初の踊りの相手がいないかも、なんて心配しなくていいよ。ああ、やっぱりあっちの席のほうが食べ物がいいぞ……」
 ボイドは骨だけになった腿肉をテーブルの上に放り捨てると、でっぷりと垂れたお尻をフリフリ、向こうへ消えてしまった。
「……大丈夫、ニコ?」
 そっとニコを仰ぎ見る。
 ニコは、両手をお腹の前で優雅に組み、視線をわずかに上に向けたまま微動だにせず、それこそ瞬きひとつせずに、立ち尽くしていた。
「ルー、お願いがあるの」
 ニコが、血の気のなくなった唇をまったく動かさず、お腹から声を絞り出した。
「私の手を引いて、テラスまで連れて行ってくださらない? ううん、なんだか自分の体が、自分の体じゃないみたいなの」
 ルーはニコの手を引いて、二階のテラスへと連れて行った。夜会広間の反対側に位置する裏通りに面しており、ここなら人気はない。
 ひんやりした夜気が、ルーとニコの頬をそっと撫でる。
「さあ、どうぞ」
 ルーは目を瞑り、両手で耳を塞いだ。
「ぐわー! 言いたい放題言いやがって、ぶっ殺してやるー! あのガキャー!」
 ニコの絶叫が、夜空にこだました。
 その日、結局、王子は夜会に現れず、集まった人々を落胆させた。
 ニコとボイドが踊らなかったことは言うまでもない。

「ちょっと! あのおデブちゃんの言ったことが本当だったとしたら、私はこの石壁を叩き壊して、そこから身投げしなきゃいけないわよ。ホントなの、ルー」
 城壁内側にへばりつくよう建つ、ルーの小さな家。
 その中のこれまた狭い小部屋で、すでに寝巻きに着替え、藁入りベッドの上で胡坐をかいているニコが、黒髪を掻き毟りながらルーに迫った。
 ルーは父からの手紙をニコに見せた。
 ニコは目を吊り上げて手紙を一読すると、紙をクシャクシャに丸めて、思い切り天井に叩きつけた。
 跳ね返った紙がカサリと音を立てて床に落ちる。
「私は迷っているわ。まだ勉強を続けたい、王立学問所で、もっと医学を学びたいと思ってる。だけど、家のために結婚をしなければならない。それはあなただって同じでしょうけど。それもたしかに私に課せられたことなの。もっとも、私は夜会に出席してもちっとも目立たないし、そうしようともしなかったから、父を失望させ続けてきたけど」
「私はどうなるの!」
 ニコはドンと化粧台を叩いた。
「ルーがいなくなっちゃったら、私のこの隠れ家はどうなるのよッ!」
「私がいなくても、この部屋を使ってくれて構わないけど……、そういうことを言ってるんじゃないわよねえ」
「そうよッ!」
 ニコが再び罪なき化粧台に拳を叩きつける。
「それに、もしルーがお嫁にいくとしても、あのジャガイモだけは、私が、このニコ様が絶対に許さないッ! ハッ、『まあ、君は見られるほうさ』ですって! アンニャロウ、アンチクチョー、ウキャー、ウギャギャギャギャ!」
 思い出し笑いならぬ、思い出し怒りでベッドの上でのた打ち回るニコを尻目に、ルーはのんびりと自分で淹れた紅茶をすすった。
「まあ、なるようになるわ。私はまだ勉強と続けたいと思ってるし、その気持ちだけは伝えてくれていいって、父も言ってるんだもの」
 口にはそう出してみたものの、なにか具体的な策があるわけではなかった。有力貴族の娘であり、ある程度は自分の意思を通せるニコと、貧乏貴族のルーとでは立場が違う。
 勉強は続けたい。しかし我を通すことは周囲が簡単には許すまい。それになにより父が困ることになる。
(フゥ……)
 ルーは心の中で溜め息をつき、父に手紙の返事を書こうと思った。今の悩める気持ちをそのままに……。