株式会社美少女組!
終、美少女組のお仕事
最後の生コン車が現場を離れていったのは、携帯電話で確認すると、ちょうど午後七時を回った時だった。
空はまだ明るいけれど、オレンジ色の気配が漂いはじめてた。
セイラさんは、缶コーヒーを片手に、立ったまま重機へもたれかかり、タバコをふかしてた。時折、缶を胸元へ持っていき、タバコの灰を中へポンポンと落としてる。ひと仕事終えた長身の美女。作業着姿でも、まるでテレビのワンシーンか、雑誌のグラビアのように決まってる。
粉雪はというと、会社の軽トラックのタイヤにもたれるようにしながら、地面にヘタり込んでた。
明星さんが、空になったホースの先端を引きずって、こちらにやってきた。作業終了後、みなが倒れこむように休憩する中、ひとりポンプ車を洗っていたのだ。
生コンを流したポンプ車は、機械からホースの中まですぐに水で洗い流さないと、コンクリートが固まってしまい二度と使い物にならないらしい。
明星さんは、皆の前で両手を腰にあてると、フワフワの髪を軽く揺らしてニッコリ笑った。
「みんな、お疲れ様でした」
「おつかれーす」
体育会系ではあるものの、元気のない返事があがる。みな疲れきってしまっているのだ。
「仕上げは私とレンちゃん、モモちゃんの三人でやります。他のみんなはこれであがってください」
「おいーす」
けだるい声があがり、三々五々立ち上がる。
仕上げ? これで終わりではないのだろうか?
セイラさんが、タバコの吸殻を缶コーヒーの中に落とし、明星さんのそばへ近寄っていくのが見えた。
粉雪も近寄ってみる。
「お姉さま、よろしければ、私もお手伝いしますが」
お伺いを立てるセイラさん。それにしてもこの人、なんで明星さんにはこうも従順なのだろう。他の皆は『明星ちゃん』と呼ぶ中、ひとりだけ『お姉さま』とか呼んでるし。
「あんがと、セイラ。でもまあ、三人以上は要らないよ。今日は帰って休みなさい」
「はい、お姉さま。それでは失礼します」
頭ひとつぶん以上背の高いセイラさんが、小柄な明星さんにむかってペコリと頭を下げる。
明星さんは“仕上げ”とやらの準備に入ったので、車に向かうセイラさんに追いすがって聞いてみた。
「あの、仕上げって、何をするんですか?」
セイラさんが足をとめ、振り返る。子犬にでも話しかけられた、といった風情でちょっと驚いた表情。そういえば、今朝、家で話して以来、現場では一度も口を聞いていない。別に避けていたわけではなく、そんなヒマすらなかっただけなんだけど。
セイラさんは、視線をこちらに少しだけ落とした後、前を向いて歩き出した。
無視?
ちょっとだけ腹が立つ。
でも、セイラさんはまた足を止めると、ふり向いて答えてくれた。
「仕上げってのは、コンクリートをコテで撫でて、キレイにすんのよ」
相変わらずぶっきら棒な物言いだが、初めて会った時の、嘲りの雰囲気はない。
「でも、コンクリート打ちながら、ずっと撫でてましたよね」
一人、もしくは二人が、ずっと撫でながら追いかけていたはずだ。
「普通の基礎工事なら、これで終わりだけどね。ここはちょっと特殊で、仕上げゴテまで入れるから、ちょっとかかるのよ。今は夏だから、だいたい六時間」
六時間!?
今から六時間では、深夜十二時を回ってしまう。明星さんたち三人は、今日あれだけ大変な仕事をした後、さらにそれだけ残業するのか。
疲れ果て、立って歩くことすらしんどい粉雪には、想像もできない作業量だった。
「明日にすること、できないんですよね?」
「まあね。生コンが乾いちゃったら、もう撫でられないでしょうが」
生コンが乾くギリギリの時点が、今から六時間後ということなのだろう。
それにしても、と思う。
あのつっけんどんなセイラさんが、自分の質問を「これだから素人は」などと嘲笑することなく、簡潔に答えてくれる。
今日は倒れることなく、一生懸命頑張った粉雪のことを、少しは見直してくれたのだろうか。
それとも、仕事に真摯な姿勢のセイラさんのことだ。先輩として、いち後輩の質問に真面目に答えてくれただけなのだろうか。
どっちも含まれているのかもしれないが、粉雪としては、前者の割合が大きいと思いたかった。
今日は作業終了まで、きっちりやり抜いた。セイラさん流に言えば、今日やれたのだから、明日もやれるかもしれない。
うん、セイラさんはきっと私を見直してくれたに違いない。
再びタバコに火を付けながら、車にむかって歩いていくセイラさんの後ろ姿を見ながら、粉雪はちょっとだけ胸を張った。
ところが、それで終わりではなかった。
車に乗ろうとしたみんなを、明星さんが再び呼び集めたのだ。
「今、空ちゃんから電話がありました。みんな、一昨日、インターチェンジの現場で、検査の写真撮影があったのは知ってるよね」
みな無言で頷く。
粉雪も耳にはしていた。セイラさんがそこで検査を写真撮影を手伝ったのを、グラビアの撮影と勘違いしたのだ。
「で、検査の結果ですけれど、不合格だったそうです」
「えー!」
美少女組がどよめく。検査の不合格とは、それほど珍しいものなのだろうか。
「お姉さま、インターチェンジの開通は、四日後でしたよね」
セイラさんが声をあげる。
「そう。でも開通前日に県のお偉いさんを呼んで開通式があるし、その前日にも清掃が入るので、作業員が入れるのは、実質二日しかありません」
「何が引っかかったんですか?」とふたたびセイラさん。
「野生動物進入阻止の防護柵。これを両車線、計四キロの長さに渡って設置のし直しです」
今度はどよめくことなく、みな神妙な面持ちで明星さんの続きを待つ。みなには、話の先が見えてきているようだった。
「それで、元請けのトーマツ建設さんが、加勢してくれとうちに頼んできたというか、早い話、泣きついてきたそうです。五百メートル分を、うちに受け持って欲しいと」
美処女組全員が静まり返った。明星さんは続けた。
「五百メートルは、普通にやったら一週間はかかる工事です。でも二日でやらないといけません。ですから、これからすぐ全員でインターチェンジの現場へ行って、下工事にかかろうと思います」
これからすぐ? 徹夜?
粉雪は心底驚いた。そして、もうアガリだと言うので、忘れかけていた疲労感が全身を襲ってきた。
(と、とても無理……)
逃げ出したくなる。
他のみんなは、どう思っているのだろう?
誰だって好きこのんで、疲れた体に鞭打って仕事を続けたくないはず。
周りを見回す。みな、目を瞑ったり、腕を組んだりしながら、表情を強張らせてた。
誰かが、私は嫌だ、もう帰る、と口火を切ったらどうなるんだろう?
「晩御飯はどうなるの?」
誰かが口を開いた。
「おっつけ空ちゃんもここへ来るけど、残業時の暗黙のルール通り、ファミレス『タートル』で、二千五百円のステーキから、飲み物はビールまで事務所持ちでなんでも食べ放題です」
明星さんがにっこり笑う。
「じゃあ、しょっがいないかー。食べ放題には逆らえないもん」
誰かがそう言うと、みんながドッと沸いた。
みな、笑顔を浮かべている。残業、しかも徹夜仕事など、誰だって嫌に決まっている。さっきみんなが考え込んでいたのは、逃げ出そうと思っていたわけじゃない。覚悟を決めていたのだ。
「なに食べる?」
「私はステーキじゃなく、ハンバーグがいいなあ」
「四百グラム、いっちゃう?」
「デザートはケーキとパフェ、両方食べちゃう!」
さきほどの重苦しい雰囲気とは打って変わって、みなワイワイと雑談しながら車に戻り始める。
粉雪も行かなければなるまい。一人だけ異論を差し挟める空気ではないし。
しかし、場のなごんだ空気を引き裂くように、鋭い声をあげた人がいた。セイラさんだった。
「この現場、ファンタジー家具さんの物流倉庫の基礎工事仕上げはどうなるんですか? お姉さま」
たしかに。明星さんは皆で加勢に行くと言った。六時間かかるという仕上げ作業はどうなるのだろう?
「みんなで行くよ。そうしないと向こう間に合わないから」
「トーマツ建設さんが間に合わないって言ったって、ファンタジー家具さんは、うちの大切な発注主のはず。それを放っておいて下請け仕事を優先するなんて、本末転倒じゃありませんか」
セイラさんの声が高くなる。粉雪も、そして美少女組の皆も、明星さんとセイラさんのやり取りを見守る。
「わかってる。でも、行かなきゃ」
明星さんは、声を荒げるでもなく、散歩に行こうよ、とでも言うかのように、リラックスして答えた。
「トーマツ建設さんのほうが大事だとか、ファンタジー家具さんを軽んじてるとかじゃあないよ。ファンタジー家具さんにはさ、仕事が遅れても私や空ちゃんから謝っちゃえる。でも、トーマツさんの仕事が遅れたら、謝るのはトーマツの社長さんで、私たちは責任を取れない。だから……、行かないとね」
口で教えるより、まずは実践してみせる。明星さんにしては、珍しい長口上だった。顔はいつものニコニコ笑顔なだけに、説明口調が余計苦しそうに感じる。
「わかりました、お姉さま」
セイラさんが引き下がった。粉雪はそこでようやく理解した。セイラさんは、なにも明星さんに噛み付こうと思ったわけじゃないのだ。あえて正論を述べて、それを理解した上での結論であることを、美少女組のみなに、はっきり伝えたかったのだ。
セイラさんが“お姉さま”と呼ぶ明星さんは、けっしてむやみに仕事を放っぽりだそうとしているわけではないことを。
「コナちゃん、コナちゃん」
ふたたび車に乗ろうとすると、明星さんが声をかけてきた。
「今日はごくろうさま。ごめんね、今日はろくに休憩も取れなかったし、慣れない仕事で疲れたっしょ。コナちゃんは今日はもうあがってね」
(えっ!?)
驚きで、思わず目を見開く。
「もうすぐここへ空ちゃん来るからさ。それでコナちゃんは今日はあがって頂戴。空ちゃんの運転は、ちょっと怖いけどね」
明星さんが、ぺロリと舌を出してみせた。
「で、でも、私も……」
クタクタに疲れてはいた。ふくらはぎは弾力のない粘土のように硬くなってる。ベッドやソファの上など贅沢は言わない。地面の上へ、今すぐ倒れ込んでしまいたいほどだ。
次の現場へ行くと聞き、正直、まだ心の整理はついていなかった。適当な口実を作って逃げ出したい欲求に駆られもしている。
そこへ、自分だけは帰っていいと言う。まさしく神の助け。これを地獄の釜の底に垂らされたクモの糸と言わずしてなんと言おう。
だけど、体の悲鳴とは裏腹に、心が反発した。
ここで一人だけ助かるような真似をするのなら、今日は、いや、そもそもセイラさんへの反発心からやって来た昨日の初日から、仕事になど来なければよかったのだ。
「私も行きます」
きっぱりと断言した。私ってカッコいい、と自分で自分に惚れそうだった。粉雪の意気を、当然明星さんは買い、よし、一緒にやろう! と、なるはずだった。
「ありがとう。でも帰って頂戴」
明星さんは笑みを浮かべたまま、あっさりと言った。
「わたし、疲れてますけど、まだ昨日のように倒れるほどじゃありません。やれます」
意気込む粉雪に、明星さんは困ったような顔をした。
「これから行く現場はさ、ちょっと難しい工事だし、まだ始めたばかりのコナちゃんには難しい工事なんだ」
「私は足まといってことですか?」
思わず口に出してから、しまった、と後悔する。難しい工事に限らない、粉雪は今日だって、昨日だって明星さんからすれば足手まといなのだ。セイラさんに聞かれていたら、また今朝のように襟首を締め上げられるところだった。幸い、セイラさんは少し離れたところにいたので、耳に届いていないようだけれど。
粉雪の悪いクセである、挑発的な物言いにも、明星さんはイエスともノーとも答えず、ただ笑顔なだけだった。
足手まとい、ということなのだろう。
正直、疲れきっている。本心では、今日はアガリでいいと言われホッとしている。
自分はもうやりたくないし、周囲の状況も必要ないと言っている。
(今朝と似ているな)
技術上の理由から、はっきり必要ないと言われているぶん、今朝よりもさらに続ける必要はないと言える。
(でも)
でも、それでもやれることはあるかもしれない。
「あの、私、ここに残って、明星さんたちの代わりに、いえ、代わりになるなんて思ってませんけど、でも、代わってコンクリートを撫でることはできませんか?」
考えるより先に、言葉が出ていた。
「コンクリートを撫でるのを、今日はずっと見たましたし、あの、わたし、ケーキ作るの好きなんです。特に生クリームを使ったやつが好きで、ヘラで綺麗に仕上げられるんです。生コンを綺麗に仕上げるのも、その、ちょっと似てるかな、と……」
語尾は途切れてしまった。明星さんは困ったような笑顔を浮かべているし、工事現場の大変な労働を、趣味のケーキ作りに例えるのは、もしかするとものすごく気分を害することではないか、と気が付いたから。
「やらせればいいじゃないですか、お姉さま」
セイラさんが、いつの間にか隣に立っていた。
「表面をグラインダーで全部削ってやり直すなら、全員でかかって丸一日はかかりますよ」
「でもね、セイラ」
明星さんは人差し指を顎に当てて、もう暗くなり始めた空を見上げて考え込んだ。
「これだけの広さ、一人だとそれこそ一日仕事だよ。休みなしでやっても、明け方近くまでかかるよ」
「昼じゃないんだし、生コンが乾くのに時間がかかるはず。そのくらいまで、ギリギリ持つでしょう」
「うーん」
明星さんはふたたび考え込む。
「やらせてくださいッ!」
気が付けば、明星さんに迫っていた。
「わたし、絶対に途中で投げ出したりしません」
夜八時。
太陽はすでに沈み、あたりは真っ暗になっている。
ファンタジー家具の物流倉庫工事現場で、粉雪はスタンド式のハロゲン投光機に照らし出されていた。
(最初は木ゴテでまっすぐ馴らす)
時々そう呟きながら、見よう見真似で木ゴテを左右に動かしみる。
「木ゴテと言っても、木で出来てるわけじゃないのね」
生コンがべったりと張りついた木ゴテを目の前で眺める。
コテは、薄紫色のプラスチックでできていた。昔はその名のとおり、木で出来ていたらしい。
現在は、プラスチック製が主流になっているとのこと。この木ゴテならぬ、プラスチックゴテで、三棟ある倉庫の基礎部分を撫で上げる。
これが一巡目の仕上げ作業だった。
けっして無理はしないように。
そう言い残して、明星さんは粉雪に任せていってくれたのだ。
ペストの胸ポケットに入れておいたメモ帳を取り出す。
一巡目の作業の眼目は、表面に浮かぶ小石を沈めてしまうこと。
二時間ほど前に打ったばかりの生コンは、まだプリンのように柔らかい。指先で触るだけで、ズブズブと入り込んでいく。
生コンの中には、かなりの量の小石が混ぜてある。あるいは、半分以上は石なのかもしれない。
この小石を、表面には見えないように沈めてしまう。言われてみればたしかに、小石でデコボコしているコンクリートなど見たことがない。どこもツルツルにだったはずだ。
そういうものだと思っていたが、明星さんたちのような職人さんが、綺麗にコテで撫でて仕上げていたのだ。
女の子ひとりでは、何かあった時に対処できない。そのため、明星さんと、現場にやってきた空月さんが話し合った。
現場の入り口と裏口で交通整理をしてもらっていた警備会社に頼み、人間を交代。新たに派遣されてきた中年の女性二人に、夜勤でそのまま交通整理兼警備を依頼してくれていた。
表と裏の道路に面した入り口には、警備服と赤く光る指示棒を持った中年の女性二人が、手持ち無沙汰に道路を見ている。
美少女組は、夜勤の警備員二人の日給と、粉雪自身にも残業代を支払わなければならないわけだ。
それを考えると、なんとしてでもやり遂げなければならない、と思う。
だから、空月さんが持ってきてくれたお弁当を食べて、粉雪はすぐ作業にとりかかった。
右手に持ったコテを、左から右へ、肩が届く限り滑らせる。一度ではまだデコボコしていると思ったら、折り返す。生コン面はクリームのように柔らかい。それほど力は必要ないし、難しい作業でもなかった。
ただし、真っ暗な中を作業しているわけで、明かりは会社のハロゲン投光機しかない。
半径十メートルほどは真昼のように照らし出せる業務用の強力な投光機ではあるけれど、体育館ほどもある倉庫三つ分の広さとなると、とても追いつかない。
しばし撫でると、すぐ投光機の光の範囲から外れてしまう。そのたびに、作業の手をとめて、スタンド式の投光機を移動させないといけなかった。有線だから、線が届かなくなれば、これまた自分で延長コードを持ってきて繋ぎ直さないといけない。
(二人いれば、ずいぶんはかどるんだろうな)
一人しかいないものは仕方ない。手持ち無沙汰な警備のおばさんたちは契約上、こちらの仕事は一切手伝えないことになっているらしい。
一棟目、一巡目の仕上げを終え、顔をあげてゾッとした。
まだ三分の一、それも三度行わねばならない仕上げ作業の一度目なのだ。
(まだ九分の一……)
足の筋肉に反発力がなくなり、一メートルの高さもない型枠を乗り越えるのにも、何かに掴まって腕の力を利用しなくてはならなくなっている。
投光機の光にぼんやりと浮かび上がる二棟目の型枠を見ながら、粉雪は気持ちを奮い立たせるように、ブンブンと顔を振った。
夜十一時三十分。
二順目の仕上げ作業に入った。顔がピリピリと引っ張られる感じがする。
さきほど、作業中うっかり眠ってしまい、だいぶ乾いてきた生コンの中へ、顔を突っ込んでしまったのだ。
慌ててタオルで拭ったけれど、拭き跡は残ってしまっているだろう。シャワーで洗い流しでもしない限り、綺麗にすることは難しい。
二順目は、金ゴテで撫でる作業。木ゴテとは異なり、金ゴテは看板に偽りなく薄い鉄で出来ている。
金ゴテを軽く生コン面に当て、サッと左から右へ撫でる。それだけで、生コン面は、投光機の光を反射せんばかりに、キラキラと輝きだした。
木ゴテですでにデコボコは無くしてある。二巡目の仕上げ作業は楽なはずだった。いや、実際に一巡目より楽じゃああった。だけど……。
さっきから猛烈な睡魔が襲いかかってきてた。額の辺りは痺れたようになり、何も考えられない。ふと気が付けば、立ったまま目を閉じちゃってる。
泥と、溢れた生コンでグチャグチャになっている今の足場でいい。今すぐ倒れこみ、眠ってしまいたい。
元々、さして夜更かしのほうじゃあない。十二時前には眠ってしまう。徹夜勉強なんて、高校受験前でもしたことない。
そうした生活習慣の上に、これまで体験したことのない疲労。右手で生コンを撫でながら、左手で型枠につかまっていないと、もう姿勢を保てなくなってる。
普段は、気が付けば眠りに落ちている。今は、眠りに落ちる瞬間を、寝てはいけない、と感じながらはっきり自覚できる。
眠りに落ちる瞬間は、これまで感じたことのない気持ち良さだった。
(麻薬とかって、こんな感じなのかな)
朦朧とした頭で、そんなことを考えている。
(なんで私、自分からやるなんて言っちゃったんだろ。あのまま、明星さんの言うとおり帰ればよかった……)
後悔の念が、脳裏をよぎり続ける。
素直に帰っていれば、今頃は風呂からあがってさっぱりし、冷房の効いた部屋で、気持ちよくベッドに入っていたはずだ。
(なぜ、私……)
粉雪は、ふたたび頭が真っ白になっていくのを感じた。
午前三時。
最後の仕上げ作業に入る。
足が痛い。ジャージの左ひざが破れ、そこから血が滲んでいる。眠って倒れこんだとき、型枠から飛び出していた釘に引っ掛けてしまった。
血はもう止まっているけれど、眠りかけただけに全体重がかかってしまい、深く切り裂いてしまった。
動かそうとするたびに、傷口が引っ張られ、痛みが走る。
痛みのおかげで、強烈な睡魔からは開放されたのが、不幸中の幸い。
最後の仕上げ作業は、金ゴテで行っている。さっきまで使っていたコテとは別物で、鉄ではあるものの、ノートで使う下敷きのように、薄くしなる。
使い勝手は、ケーキ作りに使うヘラにもっとも近い感じ。
ペラペラとしなる仕上げゴテを、右から左へ滑らせる。
鏡面のようだった生コンの面が、絹ごし豆腐のように柔らかでしなやかな面に変わる。
最初はせっかく輝いている面に、細かい傷をつけているようで、ちょっと抵抗を感じた。
仕上げゴテの選択を間違っているのではないか。
だが、見比べてみると、仕上げゴテを当てたほうが、輝く面のままよりもの上品に感じる。粉雪にはわからない、なにか実際的な意味合いもあるんだろう。
コテを当てるとゴツンと硬い感触が返ってくるこの時間でないと、仕上げはできないのだと実感できた。
柔らかい段階でいくら撫でても、暖簾に腕押し。
最後の最後の仕上げは、生コンを打ち終わって約六時間後の、この時間にしかできないのだ。
遅すぎても、早すぎてもいけない。
痛みで眠気は襲ってこなくなった。けれど、疲労でもう、体は動かなくなってた。
少し動いては、型枠にもたれかかるようにヘタりこんでしまう。
その都度、これから百メートルダッシュを行うような気持ちで気力を振り絞り、立ち上がる。
だけど、所詮気力で動いているだけ。すぐにまたヘタりこんでしまう。
そしてまた、気力を振り絞る。
時々記憶が飛ぶ中、昔のことを思い出した。
小学五年生、図書委員になった時のこと。
学年から三人選ばれる図書委員の仕事は、基本的には図書館の先生のお手伝いだ。
乱雑に置かれた本を、きちんと棚に戻したり、読書感想文の優秀賞を先生と共に選考したりする。
他にもいくつか仕事はある。その中のひとつに、毎朝学校に配達される新聞を、アルミ製のバインダーに挟み、図書室の新聞掛けにセットしておく、というのがあった。
この仕事のために、図書委員は他の生徒よりも毎朝二十分ほど早く出てこなければならない。
初めの頃は、図書委員に任命された使命感に燃えてた。地域の集団登校の列に加わらず、一人で学校へ行ける。
交代で見回りに立つ近所のおじさん、おばさんたちは、「粉雪ちゃん、偉いね」「頑張ってね」とみな声をかけてくれた。
一人だけ特別扱い、優秀な生徒のようで、誇らしかった。
だけど、一ヶ月も経った頃、だんだん早起きがしんどくなった。
なぜ、図書委員というだけで、余計に早く家を出ないといけないのか。二十分あれば、テレビをゆっくり見られる。もっと遅く起きてもいい。
なぜ、自分だけが……。
メーデーと呼ばれる、ゴールデンウィークの合間の日、粉雪は、図書委員の他の二人の女の子に話を持ち掛けた。「もう早く来るのはやめよう」と。
そんなことをして大丈夫、と心配の声があがる。大丈夫と胸を張った。代わりに先生がやってくれるよ、と。
粉雪が他の二人に同じ行動を呼びかけたのは、一人だけ悪い子になるのが嫌だったから。
他の子たちも、それ以上粉雪の意見に反対はしなかった。心の中では、粉雪と同じ、もう仕事に飽きていた、嫌だったに違いない。
翌朝、普段ならもう家を出る時間に、まだベッドでゴロゴロしていると、母がやってきた。遅れるから早く行きなさいとせっつかれる。図書委員の仕事は昨日で終わったと嘘をつこうとするも、母は聞く耳を持たなかった。
「私は聞いてません。とにかく今日は予定通り、すぐ出なさい」
粉雪は追い出されるように家を出た。母は、粉雪の嘘を見破っていたわけではなかった。ただ、子どもが親に断りなく予定を変えることをよしとしなかったのだ。
不承不承学校へ行き、結局いつもとそれほど変わらぬ時間に学校へ着いてしまった。
他の二人は、計画通り、来てなかった。
やむなく職員室入り口の郵便受けから新聞を取り、図書館へ運んでいつものようにバインダーへ挟む。
そこへ、図書館担当の先生が顔を出した。
「あら、他の二人はどうしたの?」
「あ、あの、知りません……」
粉雪は嘘をついた。
「まあ、大体一ヶ月経つと、みんな飽きちゃうのよね」
先生はニッコリ微笑んだ。
「粉雪さんは、夏休みが始まるまで頑張ってね。次の学期の新しい委員さんが決まるまでね」
「はい」
粉雪は元気よく返事した。
結局、粉雪はその学期間、一日も休まず、図書委員の仕事をまっとうしたのだった。
母親に辞めたいと言いにくかったし、先生の期待を一身に背負っているようで、応えたいという気持ちもあった。
ただし、口車に乗ってしまい、図書委員の仕事を放棄した他の二人は、廊下で擦れ違うたび、粉雪をジッと睨むようになった。
自分たちをだまして、粉雪だけが先生に気に入れられるよう取り入った、そう見えても仕方なかった。実際、そうだったのかもしれない。
面と向かって文句を言えないのは、粉雪は活発で明るく積極的。可愛い外見も手伝って、クラスの人気者だったからだ。
そんなクラスのアイドルを中傷すれば、非難はブーメランのように自分たちへ返ってくることは、小学生でもわかる。
夏休み前の終業式。図書委員の仕事を一日たりとも休まずやり遂げたとして、全校生徒の前で表彰されたとき、粉雪は得意な気持ちで胸がいっぱいになった。
しかし、壇上を降りるとき、粉雪が辞めさせることになった二人の、ジッと暗い、指すような視線が、一気に気持ちを冷えたものにしたのだった。
疲労と痛み、そしてふたたび襲ってきた睡魔でフラフラになりながら、そんなことを思い出していた。
思い出と、いまやっている仕事に、直接の関係がないことはわかっている。
だけど、あの時の、じっと暗い、指すような視線を思い出すと、空っぽの体にかすかに力が湧いて、作業を続けることができた。
最後の仕上げ過程は、二棟を終わり、最後の一棟にかかっていた。
なんでもいい、あと小一時間ほど立っていられる気力を湧かせてくれるものなら、どんな記憶でもよかった。
もっと小さい頃、コンビニで三十円のお菓子を買い、百円渡したのに、釣りをくれなくて泣き寝入りしたこと。
お気に入りの自転車を盗まれ、泣いて帰ったら、母親から鍵をかけなかったことを叱られ、さらに泣いたこと。
その自転車が半年後、河原で焼け焦げて発見されたこと。
中学にあがると、粉雪の髪が長すぎると言って、生活指導の先生にいきなり髪を鷲掴みされたこと。あの先生は、今でも大嫌いだ。
吹奏楽部に入部すると、希望のチューバは吹かせてもらえず、「アンタ、ガリガリに細いから」という納得できない理由で、パーカッションを押し付けた先輩。
高校に入るとすぐに、上履きを三度も立て続けに盗まれた。後でわかったことだが、犯人は三年の女子生徒だった。自分の恋人が新入生の粉雪のことばかりを話すようになり、奪われると思ったらしい。
バカらしい。心の中で唾を吐くと、粉雪は仕上げゴテを握る手に力を込めた。
二日前、勘違いして美少女組の門を叩いた自分を大笑いしたセイラさん。
なんでもよかった。自分の心に投下して燃やせるものなら、ご飯がまずかった、電車が遅れてイライラした、並んでいた列に割り込みされた、なんでもよかった。
最後の角に仕上げゴテを当てていると、東の空が少しだけ明るくなるのを感じた。目はもう開けていられなかった。
頬の右側が冷たいのは、地面に直接当たっているからだろう。もう、粉雪は倒れてしまっているらしい。
今日やれるなら、明日もやれるかもね。二十時間ほど前、そう言い放って家を出て行ったセイラさんの後ろ姿を思い出した。
(セーラー服の後ろ姿、かっこよかったな……)
粉雪の記憶は、そこで切れたのだった。
ぼんやりと目が覚めたのは、お尻に感じる激しい振動に、耳をつんざくエンジン音。頬を撫でる冷たい風のせいだった。
粉雪は何かに腰かけたまま、固いものにしがみついていた。
なんなのだろう? 現場で倒れてしまったはずだが。
体を動かそうとして、上半身がまったく動かないことに気が付いた。寝ぼけていて、まだ神経が繋がっていないわけではない。
手首や二の腕、肩、背中に食い込むロープの感触。
粉雪は縛られているのだ。
ハッと気が付いた瞬間、粉雪の頭の上から声がふってきた。
「目ぇ覚めた? もうちょっと寝てりゃよかったのに」
「え、セ、セイラさん!?」
粉雪がしがみついている、いや、縛られているのはセイラさんの背中だった。
冷たい風が頬を撫でる。エンジン音が一際大きくなったかと思うと、粉雪は鼻をセイラさんの背中に打ちつけた。
「痛っ!」
「アハハ、悪い、悪い。でもあんまりゆっくり走ってられないからさ」
首を後ろに捻りながら、セイラさんがタバコを咥えたままニヤリと笑って見せた。
粉雪は、セイラさんが運転するオートバイの後ろに乗っていた、いや、くくりつけられていた。
工事用の黄色と黒の縞々ロープで、何重にも巻きつけられている。眠っている粉雪が落ちないように。
空は明るいが、空気はまだ冷たい。
「いま、何時ですか?」
大声で聞いてみる。
「朝六時」
セイラさんの簡潔な答え。
「現場でアンタを拾ったから、いま運んでる途中。もうすぐ事務所着くよ」
あっと間に、オートバイは事務所前に着いた。
セイラさんがロープを解いてくれ、粉雪はふらつく足取りで歩道の上に立った。
「あ、ありがとうございます」
セイラさんは、真新しい作業着に着替えている。
「なに、私たちの半分は、真夜中にいったん帰ってシャワー浴びて、仮眠とってから、これからだからね」
「明星さんに頼まれて私の回収に?」
セイラさんは無言で首を横にふった。
「なんとなく気になってね。まさかアンタがまだいるとは思ってなかったけど」
「はぁ」
途中で逃げ帰ると思われていたのだろうか。
「事務所で仮眠して待ってな。もうじき空ちゃんが戻ってくるから。そしたら家に送ってもらうといい」
セイラさんが、エンジンを吹かした。
「あ、あの、私の仕事、どうでした?」
きちんとやれてたか、それどころか、最後までやれているのかすら記憶にない。
「ま、ヒドイ出来だけどね」
ひと呼吸おいて、セイラさんは続けた。
「でも、あれならなんとかなるだろ。助かったよ、お姉さまも、みんなも」
ホッとして、その場で倒れてしまいそうだった。よかった、やり遂げたのだ。自分の行動は、無駄にはならなかったのだ。
「私のこと、少しは見直しました?」
フラフラになりながらも、聞かずにはいられなかった。
「今日もこれから来るならね」
セイラさんがニヤリと笑う。
「今日はもう無理です。はっきり申し上げます」
そう言って、粉雪も笑う。
「ま、来るっつっても置いてくけどね。自分の姿、見てごらんよ、すごい有様だよ」
事務所のドアガラスに映る粉雪の姿は、たしかにヒドイものだった。美容院にいって、ヘアカラーしたばかりの髪は泥だらけ。
顔には、生コンに突っ込んだ後、拭き取った跡がそのまま残っている。
緑色のジャージは、泥と生コンが張り付き、元の色の判別さえ難しい。
「じゃ、ま、とにかく事務所で寝な。じゃあね」
セイラさんはアクセルを回して発進した。
「今日は無理だけど、明日は来ますよー!」
走り去るセイラさんの背中に向かって、大声をあげる。
セイラさんは、振り返らずに、左手をあげて応えてくれた。
満足だった。
「よし、今日は寝るぞ。そして明日は頑張るぞ!」
元気に声をあげると、粉雪は株式会社美少女組の事務所の扉を押し開け、中へ入ったのだった。