株式会社美少女組!

2、鉄とコンクリート
 正直な話、美少女組の日給は魅力だったわけで。
 朝八時から夕方五時までの作業で、日給一万三千円。
 コンビニやレンタルビデオ店でバイトしている同級生は、時給七百円くらいだよ!
 一週間も仕事すれば、最新、最高機能のケータイ機種が買えちゃう。
 それに!
 心の中に浮かぶショートカットのスレンダー美女に人差し指を突きつける。
(わたしは可愛いだけじゃないのよ!)
 一週間頑張れば、高慢なセイラさんも、粉雪を根性なしだと責めることはできまい。
 粉雪の勘違いが原因だけど、笑われたままスゴスゴ引き下がることはできない。セイラさんを見返してから、堂々と辞めればいいのだ。
 それでケータイの購入資金も確保できる、まさに一石二鳥。
『汚れてもいい服装で来てね』
 ここで働きます、そう宣言した粉雪に、事務の空月さんが伝えてきた。
 汚れてもよい服とは、昨日美少女組の女の子たちが着ていたような作業着のことなんだと思う。でも粉雪がそんなものを持っているわけもなく。
 押入れの奥から、緑色のジャージを引っ張り出した。着てみると、手足の丈が少し短い。胸には『桜中』のロゴ。中学時代の体育ジャージなのだ。

 翌朝七時半、美少女組の事務所に着くと、フワフワとしたセミショートの髪型に、ふっくらしたほっぺが可愛らしい少女が待っていた。
「あなたがコナちゃん?」
 コナちゃん? 初対面で随分親しげに呼びかけてくる子だ。学校でもよくそう呼ばれるので、別に嫌な感じはしなかったけど。
 身長百五七センチの粉雪より、頭半分ほど低い小柄な女の子。粉雪より二つ、三つ年下に見える。パッと見、小学生といっても過言じゃあない。
 茶色のニッカボッカに、黄色いチェック柄の長袖シャツ。美少女組ネーム入りのベストを羽織っている。
「わたし、泉明星。『明星』って書いて『あきら』ね、よろしくね」
 空月さん、セイラさんに続き、これまた芸名としか思えない名前だ。本当に建設会社なのだろうか。
 明星ちゃんは、昨日腹を立てたスレンダー美女セイラさんとはまったく逆の方向で、可愛らしい女の子だった。
 キャンデーをあげたくなるというか、遊園地へ連れて行ってあげたくなるというか。
 きっちり作業着を身につけているところを見ると、明星ちゃんは、粉雪より経験はあるのだろう。
 事務所には、明星ちゃん以外、誰もいなかった。もうみんなどこかへ出発したのだろうか。あるいは、これから出てくるのか。
「じゃあ、行こうか」
 明星ちゃんに促された。
「は、はい。あ、う、うん」
 先輩だから敬語を使ったものか、年下だからフラットな口の利き方がいいのか、ちょっと迷う。
 明星ちゃんの後を付いていき、事務所の裏手に回る。裏手のガレージには『(株)美少女組』と社名がペイントされた白い軽トラックが止まっていた。
 荷台には、スコップやバール、一輪車の他、粉雪には使用法がまったくわからない工具が雑然と載せられている。
 明星ちゃんに促され、助手席に乗った。軽トラックに乗るのは生まれて初めてだ。直角な背もたれがややキツイ感じ。でも、座席の空間は案外広い。
 運転席側のドアが開き、明星ちゃんが乗り込んできた。
 えっ?
 無免許運転?
 思わず眉をひそめる。昨日、未成年なのに堂々とタバコを吸っていたセイラさんの例がある。法令順守の意識の低い会社なのかもしれない。建設会社には、たしかにそんな荒くれなイメージはある。
「あ、あの、免許は持ってるの?」
 躊躇無く車のエンジンをかける明星ちゃんに尋ねた。
 タバコくらいは許そう。健康に害があるのは自分の体だ。だが、車の運転は別だ。事故を起こせば、他人の人生を巻き添えにする。そんな会社では、いくら自分を鼻で笑ったセイラさんへの意地があっても、一日たりとて働くことはできない。
「今日、これから行く現場は重機ないし、免許いらないから」
「いえ、車の免許、ということだけど」
 明星ちゃんは童顔をほころばせて、ニカッと笑った。
「もしかしてコナちゃん、わたしのこと未成年だと思ってる?」
 違うの!?
 明星ちゃんはベストの胸ポケットをまさぐり、透明のパスケースを取り出した。
「じゃじゃーん!」
 免許証が、自慢げに粉雪の前に掲げられた。
 写真は間違いなく明星ちゃんのものである。たしかに普通自動車免許も含まれていた。誕生日は、粉雪より三年前だ。
「え、え、じゃあ、明星ちゃん、じゃない、明星さんは、私より三つ上で、じ、十九才!?」
「そっだねー」
 明星さんは得意そうに胸を張った。
「正確には、あと三ヶ月で二十歳。もうじき、大手をふってお酒も飲めるようになります」
 すでに隠れて飲んでいるらしい。
「どう、驚いた? 三順目、何気に北を切ったら、ロン! 国士無双! くらい?」
「あ、いえ、なんのことだか」
「あ、ごめん、コナちゃんは麻雀知らないか」
「は、はぁ」
「まあ、とにかくすんごい驚いたかってこと」
「はぁ、はい、驚きました」
 本当に驚いた。素直に頷く。
 明星さんは免許をパスケースにしまった。
「ついでに言うと、私は美少女組の現場責任者だったりね。他のみんなは、今日はインターチェンジの現場行ってるから、これから行く現場はコナちゃんと私の二人だけ。がんばろーね」
「は、はい」
 どう高めに見積もっても中学生な外見だが、自分の上司らしい。まだ狐につままれたような思いながらも、とにもかくにも、姿勢を正したのだった。

 現場は、街中から車で二十分ほど離れた保養センターだった。
 温泉と地域特産品の販売がウリの施設。
 粉雪も小さい頃、両親に連れられて二、三度来たことがある。
 保養センターの西側、運動場のようにだだっ広い駐車場の外れに、軽トラックは止まった。
 テニスコートほどの広さの地面がむき出しになっている。
 冷房の効いた軽トラックを降りると、サウナのように粘り気ある熱気が襲いかかってきた。
「暑いですねー」
 ジャージの襟元を広げ、手の平であおぎながら、犬のように舌を出して見せた。長袖の上着を脱ごうとして、明星さんに止められた。
「暑いだろうけど、着てたようがいいよ。火傷しちゃうから」
 外仕事の準備は万端。顔はもちろん、肩から腕にかけても日焼け止めクリームを塗ってはいる。だけど、フライパンであぶられるような強さの日差しだ。防御はできるだけ緩めないほうがいいんだろう。我慢できなくなったら脱げばいい。明星さんの助言に従うことにして、上着を羽織りなおす。
 明星さんが、白いヘルメットのあご紐を締めながら説明してくれた。
「ここに今日、ベタコン打っちゃうわけ。センターの配送車が出入りしやすいようしようってわけね。生コン車が午後一時に来る予定だから、それまでに鉄筋組んじゃおうか」
 ベタコン、鉄筋?
 頭の中で、クエスチョンマークが乱舞する。
 粉雪の戸惑いに、明星さんが気がついてくれた。
「生コンはわかる?」
「どろどろした、コンクリートが固まる前のやつですよね」
「そっだね。それをここに流しこんで、ほら」
 明星さんが、白い長靴を履いた右足の踵で、足元のコンクリートをトントンと叩いてみせた。
「ここと同じにしようってわけ」
 ハハア。粉雪もヘルメットのあご紐を締めながら頷いた。
「あとは鉄筋を組むんだけど、コナちゃんはやったことないよね?」
「はい、ありません」
「じゃあ、私のやること、ちょっと見ててね。わたし、説明苦手なんだ」
 依存はなかった。両手を腰の前で組み、明星さんの動きを見守る体勢にはいる。
 明星さんは、現場の横に積まれていた、物干し竿より長そうな鉄の棒の束へ歩み寄った。
 鉄の棒は、口径は太目のボールペンか、細めのマジック程度。二十本程度ごとに束にされ、その束が十本ほど積まれている。
 明星さんは、手にしたペンチで、鉄筋を束ねている細い鉄線を、真ん中と両端の三ヶ所を手際よく切断。一本一本をバラバラにした。
 軍手をした手で、鉄筋の中央を五本ほどまとめて握る。
 ホイッ、という軽い掛け声。瞬く間に、一握りの鉄筋の束は、明星さんの右肩へ天秤のように担ぎ上げられた。
 固い鉄とはいえ、物干し竿以上に長く、ボールペンのように細いため、相当にたわむ。肩に担がれた鉄筋は、両端がコンクリートの上についてしまいそうだった。
 明星さんは、鉄筋に右手を添えて器用にバランスを取ると、小走りにむき出しの地面の上へと移動した。
 テニスコートほどの広さの現場を囲むように一本、一本と鉄筋を肩から落としていく。
 無くなると、また取りに戻る。
 美少女が力仕事しているシーンって、なんかいいなあ。粉雪は、呑気なことを考えてしまった。
 やがて、鉄筋が周囲をグルリと囲んだ。
 続いて、今度は鉄筋を碁盤の目のように並べていく。
 そこまで来て、明星さんのやろうとしていることがわかった。
「補強を入れてるんですね。パスタは少し芯を残して茹でたほうがおいしい、みたいな」
「そっだよー」
 思わずパスタに例えた直後、自分でも少し違うのではないか、と思ったが、明星さんは察してくれたようだった。
「こうしとかないと、コンクリートは固まった後、固いだけのお煎餅みたいにヒビが入っちゃうからね。間隔は二十センチごと。四方にはもうチョークで印入れてあるから」
 明星さんを手伝うべく、自分も鉄筋の束へと歩み寄る。
 一本をつかみ上げてみる。インテリアのように加工されていない、鉛色の鉄の感触が生々しい。
 長さは五メートルくらい。真ん中を持ってバランスを取ってみた。それほど重さは感じない。
(明星さんは、五、六本まとめて持ってたな)
 自分より頭半分は身長が低い、見た目は中学生、下手をすれば小学生でも通じそうな明星さんがそれだけ持てるのだ。
 自分にも持てないはずはない。
 鉄筋を五本、まとめて握ると、エイヤッと持ち上げようとした。が、鉄筋はピクリとも動かなかった。
 お、重い! すごい重い!
「それ、D十三の五.五メートルだから、一本五キロ半あるよ。コナちゃんは持てるだけでいいからね」
 右肩に担ぎ上げた鉄筋を配りながら、明星さんが声をかけてくれた。
 一本五キロ半!
 五本で二十七キロ半!
 箸より重いものは持ったことがない、とは言わない。けど、粉雪はごく普通のサラリーマン家庭の娘なわけで。二十キロを超えるものなど、持ったことはおろか、持とうと試みたこともないのである。また、その必要もないこれまでの人生だったのだ。
 鉄筋をヒョイヒョイ運ぶ明星さんに視線を送る。いったい、あの小さな体のどこにあんな力があるんだろう。


 保養センターの外壁に、遠くからでも見える大きな丸時計が取り付けられている。時計の針が午前十時を指す前に、鉄筋を配り終えることができた。
 休憩となり、ホッと一息。
 照りつける日差しを避けるため、保養センターのひさしの下に入って休憩。
 それにしても暑い。汗かきなほうではないけど、ジャージの下のTシャツは汗でずぶ濡れだ。
 明星さんが軽トラックに載せていた十リットルの大きなウォータージャグで、水分を補給する。
 熱いわけでも、冷やしてあるわけでもない、ぬるいお茶。炎天下で作業を続けた体に、優しく沁み込んでいく。
 鉄筋を配り終えた、といっても、粉雪が運んだぶんは、全体の二割もなかったんだけど。
 明星さんにほとんど頼りきりになってしまった。
「さてと」
 明星さんが立ち上がった。
「じゃあ、後はパッパッと結んじゃいましょうかね」
「結ぶ?」
 碁盤の目のように並べた鉄筋を結ぶのだろうか。紐を結ぶように、鉄筋をクニャクニャと捻りながら結ぶ明星さんの姿を脳内に浮かべた。
 ブンブンと頭を横に振る。
 いかに明星さんが三十キロ近くを軽々と上げる力の持ち主とはいえ、太目のボールペンほどもある鉄筋を、手で折り曲げるなど非現実的だった。
「これを使ってね」
 明星さんが、軽トラの荷台に乗せられた工具箱に手を入れる。取り出したのは、長さ二十センチほどの、『く』の字に折れた銀色の鉄の棒だった。
 先端一センチほどが直角に折れ、丸く尖っている。
「歯医者さんの使う、歯垢取りの道具みたいですね。ちょっと太くて大きいけど」
 見たまま感想をのべる。
「アハハハ、そうかもね。たしか正式には『ハッカー』っていうのかな」
 明星さんが、手にしたハッカーをくるくる回してみせた。
 くの字に折れた部分から先が、テンテケ太鼓のように回転する。
「またちょっと見ててね。やってみせるから」
 明星さんが現場の角で上体をかがめた。鉄筋と鉄筋が交わる部分に、左手に持っていたシャープペンシルの芯ほどの太さの針金を当てると、右手でハッカーを三度ほどクルクル回す。
 手際の良さに、粉雪には何が起こったのかさっぱり理解できなかった。明星さんが手を離すと、鉄筋の交差部分は、針金によってビシリと結び付けられている。
 粉雪が鉄筋を軽く揺さぶってみても、ピクリとも動かない。
「すごーい」
 粉雪は素直に驚いた。
「でも、全然見えませんでした」
「もう一回やってみるよ」
 明星さんは隣の交差部分で、同じ動作に入った。今度はコマ送りのようにゆっくりやってくれる。
「この結束線をね、鉄筋の下に通して」
 結束線というらしい、二つ折りにした針金の折り曲げた部分を、鉄筋の下から通し、頭を上に出す。
「ここにちょいと引っ掛ける」
 スローモーに、明星さんの手首が軽くスナップする。それだけでハッカーはクルリクルリと二、三回転し、結束線を締め上げた。鉄筋がしっかりと結びつけられる。
「なるほど、新聞の束を縛る感じですね」
「そっだね。それにヒモじゃなくて針金だから、締め付けたらそれでオッケー」
「わかりました」
 軽トラの荷台から、明星さんと同じハッカーと、結束線の束を持ってくる。
「鉄筋の交差する部分は全部結んじゃうんですか?」
「一個飛ばしで交互にやってくよー」
 交互でいいのなら、結ぶ量は単純に半分になる。
 広さはテニスコートほど。広大、というほどの広さではない。
「よし、やるか」
 しゃがみこんで、作業にとりかかる。
(結束線を下から通して、頭をハッカーで引っ掛けてクルッと)
 明星さんのように手際良くはできない。
 結束線を引っ掛け損ねたり、回転がスムーズに行かず針金がグジャグジャに潰れたり。見た目が美しくならない。
 が、とにもかくにも縛りつけ、鉄筋を軽く揺さぶってみる。見た目は悪いが、動きはしなかった。
「それでいいよ、コナちゃん。コンクリートで埋めちゃうわけだし、要は動かなけりゃいいわけだから」
「はーい」
 返事をしながら、明星さんのほうを見る。明星さんは、中腰で上体を前に倒したまま、上体だけを左右に振り、右手側、真ん中、左手側、と手際良く結束していた。
 粉雪が不恰好に一つ結ぶ間、明星さんは六つほども結束してしまうスピード。
(負けるのは仕方ないけど、負けてはいられない)
 技術で劣るのは仕方ないが、ヤル気で負けては今日ここへ来た意味がない。セイラさんに足元を見られるような真似はできないのだ。
 粉雪は両拳を握り締めて気合を入れると、しゃがみ込んで作業に集中するのだった。


 見通しが甘かったことを痛感し出したのは、結束作業を始めて十五分ほど経った頃。
 明星さんは、すでに全体の三分の一ほどを結束している。田植えのようなスタイルのまま作業を続けており、特に疲れた様子も見えない。
 粉雪は、ようやく三列目にとりかったところ。まとめて五列を結束し、すでに三往復目に入ってる明星さんと比べれば、その速度は五分の一以下だ。
(腰が痛い……)
 作業に集中できなくなってきてた。
 しゃがみっぱなしの作業で、腰が疲れてる。
 明星さんのように中腰の姿勢でやってみたけれど、それだってけっして楽な姿勢じゃない。
 しゃがんでいるだけで疲れるなんて、思いもしなかった。生まれつき体が柔らかいほうだったから、そういう姿勢は苦にならないほうだったのだ。
 疲れる理由は、不自然な姿勢のまま、手先で作業しないといけないから。
 腰が固くなってくるにつれて、背中から肩、二の腕までが疲れてくる。
 作業に集中できなくなると、途端に真夏の強烈な日差しをツラく感じた。
 午前十一時。お日様はもう真上にのぼっている。
 気温は間違いなく三十五度を超えている。
 足元の地面から、鉄筋から噴き出す、まとわりつくような湿り気のある熱気。太陽からは肌を焦がす容赦のない紫外線。
 顔中から汗が噴き出す。拭っても拭っても流れ落ちる汗が、ジャージの膝部分に丸い染みをつくる。あっという間に乾いてしまうのだけど。
「ちょっと休憩しようか」
 そう言って明星さんが立ち上がった。粉雪がようやく三列目を終わろうとしてる時だった。
 天の助け。フラフラと保養センターの軒下に入る。スッと汗がひく。日陰とはこれほどヒンヤリ涼しいものか。
「これ、塗っといたほうがいいよ」
 明星さんが渡してくれたのは、日焼け止めのクリームだった。
「時々塗り直しとかないとね」
 クリームを塗るのもダルく感じるけど、明星さんの言うことはもっともだ。
 明星さんはすでに顔にクリームを塗り直している。鏡も見ないでやったせいか、ペンキを塗りたくったように跡が残っていた。男の子がいる学校ではない。どうせ自分たち以外誰もいはしないのだ。
 明星さんに習って、指先で顔中にクリームを塗りたくった。ジャージの袖を捲り上げて、二の腕から手の甲までも塗り伸ばす。
 ウォータージャグからぬるい麦茶を飲み、水分も補給。
 明星さんは、粉雪の遅すぎる作業にたいして、何も言わない。
(早くしろって言われても、難しいけど)
 申し訳ない思いと、情けない思いが交錯する。
 一時間ほどで、鉄筋の結束を含めたその他諸々、コンクリート打ちの準備が整った。
 結局、粉雪が結べたのは、全体の一割にも満たなかった。
 保養センターの掛け時計の針は、十二時半を指している。
「あ、来たよ」
 明星さんが、保養センターの駐車場入り口を指差す。
 弁当を食べ終えてすぐだった。薄い草色をしたミキサー車が、ハンドルを切りながら駐車場内に入ってくる。
 ミキサー車が、現場に横付けされた。
「明星ちゃん、ごくろうさん」
 エンジンをかけたまま、運転席から五十絡みの痩せたおじさんが降りてきた。頭にはヤンキースの帽子を被り、灰色の作業着を着ている。
 明星さんも笑顔で気安くこたえる。顔見知りのようだった。
「これに三リュウベイ、載ってる?」
「いんや、こいつは二.五リュウベイしか載らねえんだ。残りコンマ五載せたやつがおっつけここに来るよ」
 リュウベイ? 立米?
 昔、小学校でそんな単位を習った気がする。
 コンクリートの量を表す単位なのだろう。
 明星さんが、軽トラの荷台に積んでいた二台の一輪車を降ろした。
 まさか。粉雪は不安に駆られた。
 そんな不安を察したように、明星さんがやってきて粉雪の顔を覗き込むようにした。
「前半分は、生コン車から直接生コンを流し込めるけど、奥半分は一輪車で押していかなきゃならないんだ。コナちゃん、大丈夫?」
 明星さんが心配げに眉をひそめる。
 自分の顔色は、そんなに青白くなっているのだろうか。
 逃げ出したい衝動に駆られる。
『あなたにできっこないじゃない、アハハハ』
 昨日、事務所で踏ん反り返って高笑いしたセイラさんの顔が、脳裏にまざまざと浮かぶ。
 ここで尻尾を巻くことはできない。
「押したことないですけど、大丈夫ですよ。さあ、やりましょう!」
 精一杯の空元気、虚勢だった。笑顔を作りながら、一輪車の取っ手を握る。
 力を入れなくても、まっすぐ立つだけでフワリと持てる。押してみると、まるで何も押していないかのように軽い。
(これならいけるかも)
 希望が湧いた。
 しかし、それは一輪車に生コンが注ぎ込まれるまでだった。
 ミキサー車の最後部から、一メートルほどのシュートを伝って、液体とも固体とも取れぬドロドロした灰色の生コンが流れ落ちてくる。それを一輪車で受け取る。
 生コンが一輪車に流れ込んだ瞬間、それまで羽のように軽いと思っていた一輪車に、まるで岩を積んだかのようなドシリとした重量が加わった。
 思わずよろけ、手にしていた一輪車ごと倒れそうになる。素早く明星さんが支えてくれた。
「大丈夫?」
「大丈夫、です」
 一輪車が、鉛を積んだかのように重い。
(重いのもあるけれど)
 右手に力を入れ過ぎれば、一輪車は左に傾く。反動で左手に力を込めれば、今度は右に傾く。
 一輪車は、重さはもちろんのこと、バランスが難しかった。
 右に左にとフラフラしながら、かろうじて一輪車を押していく。だが、押していけたのも滑らかなコンクリートの上までだった。
 奥へ運ぶべく、一輪車を鉄筋を上に乗せると、車輪が鉄筋と鉄筋の間に噛んでしまった。ピクリとも動かない。
 二台目の一輪車を後ろから押してきていた明星さんが、駆け寄ってきた。
「こういうデコボコしたところはね、押すのは難しいからこうやって」
 明星さんは粉雪に代わり取っ手を握ると、一輪車の車輪を軸にして時計回りに半回転。
 一輪車をバックで引く体勢になる。
 無言で頷いて、引くのを代わる。
 力を込める。ガタガタ揺れるものの、たしかに動かせる。とはいえ、けっして軽いわけでも、楽なわけでもないけれど。
 力を振り絞り、ゆっくり下がっていると、鉄筋に足をひっかけてしまった。尻餅をつく。同時に一輪車も横倒しになり、生コンをすべてこぼしてしまった。
 鉄筋が食い込むお尻が痛い。
「す、すみません」
 すぐに立ち上がり、明星さんに謝った。
「大丈夫、大丈夫」
 明星さんは笑顔で頷いてくれた。
「どうせ最終的にはみんな生コン打っちゃうんだから、途中にこぼしたって問題ないよ。東場の親で、配牌時に一個づつある南と北を、どっちから落としてとたいして違いはない、みたいな」
 全然わからないが、とりあえずそれほど問題もないらしい。
 空になった一輪車を押して、ミキサー車へ戻った。
「女の子には大変な仕事だろうけど、がんばんなよ」
 ミキサー車の痩せた中年の運転手が、声をかけてくれた。
 次はなんとかうまく運び、予定の地点に生コンを下ろすことができた。
 恐ろしく体力を使う。膝がぶるぶる震え、頭は朦朧となってきた。
 三台目を運んでいる途中、目の前が突然、真っ白になった。
(あれ?)
 手の平を目の前にかざしてみる。
 目の前にあるはずの手が、まったく見えない。
 とにかく真っ白なのである。
 ふと体が軽くなったように感じた瞬間、天地がわからなくなり、鉄筋の上にヘタり込んだ。
 膝に鉄筋が食い込むのを感じる。だが、何も見えない。
「大丈夫! コナちゃん!」
 明星さんの慌てた声が、間近に聞こえた。
 淡い水墨画のようなシルエットが、かすかに動いているような。
「だ、大丈夫です。ちょっといま目の前真っ白で、なんにも見えないだけで」
 朦朧としながらも、自分でも不思議なほど、はっきりとした声で答えた。
 ふいに、体が浮くのを感じた。
 軽快なリズムとともに、浮いた体が移動するのを感じる。
 すぐに、周囲に空気が涼しくなった。
(日陰に、入れてくれたのかな)
 体が地面に横たえられる。
 頭が下になり、太陽の日差しを直接感じなくなると、世界に色が戻ってきた。
 淡い草色の生コン車が、離れた場所に見える。明星さんが眉をよせて、心配そうに覗き込んできた。
 明星さんが、腰のベルトにくくりつけていた携帯電話を手に取る。
「いま救急車を呼ぶからね」
「だ、だいじょうぶです」
 粉雪は静かに声をあげた。手は動くようだ。左手を、明星さんの携帯電話の上に乗せる。
「ちょっと気分が悪くなっただけですから」
 頭を下にすると、すぐに視力は戻り、気分はよくなった。軽い貧血だったようだ。
「でも」
 明星さんが躊躇する。現場責任者としては、いい加減な対応はできないのだろう。
「ハハ、真夏の朝礼で女生徒が二、三人倒れたからって、わざわざ救急車呼んだら、学校が怒られますよ」
 軽口を叩いてみせる。
 大袈裟なことにはしたくなかった。セイラさんに笑われる、と思ったわけじゃあない。立ちくらみくらいで救急車など、本当に大袈裟だと思ったし、家族が心配するだろう。美少女組にも迷惑をかけるに違いない。
「少し横になってれば直りますから」
 もう一度、明星さんに頼む。
「本当に気分が悪くなったら、すぐ言います」
「本当ね。じゃあ、これ」
 明星さんは粉雪の携帯電話をポケットから取ると、番号を入力した。
「私の番号を入れたから、あとは通話ボタンを押せば、私のにかかるから。具合が悪いと思ったら、すぐに押してね」
「はい、ありがとうございます」
 粉雪は、通話ボタンに親指を押し当てたまま、横になった。
 明星さんが、心配そうに何度か振り返りながら作業に戻るのが見えた。
 何も考えたくなかったし、考えることもできなった。粉雪は目を閉じた。

 いつの間にか眠ってしまったらしい。
 ふと目を開けると、セイラさんが現場にかがみ込んで、コテを左右に滑らせているのが見えた。
 昨日のセーラー服とは違い、会社のベストと、濃紺のニッカボッカ姿である。
 日はまだ高いが、傾いてきている。手にしたままだった携帯電話を見る。
 午後三時過ぎだった。
 一時間少し、眠ってしまったらしい。
 起き上がろうとしたけど、体がまるで反応しない。
 意識と体が、まったく繋がっていない感じだった。
 ミキサー車の姿はすでに見えない。
 白い額から流れ落ちる汗にも構わず、細身の長身をしならせ、大きなストライドで生コンをコテで撫でていくセイラさん。
(きれいだな……)
 横になったまま、まだ朦朧とした頭で、粉雪は心の底からそう思った。