三百円の援助交際

終、三百円の心
 その日の夜。
 設備屋の事務所に戻ると、親方はボクにタオルを投げてよこした。
「オマエ、そのアイティーなんとかの仕事に就きたいのか?」
 濡れた頭をタオルでゴシゴシこすりながら、親方が聞いてくる。
 機嫌は良くないようだ。
「は、はい」
「設備屋の仕事は嫌いか?」
「あ、い、いえ……」
 あれだけはっきり言ったのだ。今さら誤魔化したって同じだ。とはいえ、ここでまた設備屋の仕事を否定して、余計に親方を不機嫌にさせるのも憚られる。
「どんな仕事だって、大変なのは同じだけどな」
 親方は、事務所の安物スチールパイプ椅子にどっかと腰掛けた。
 スチール製事務机の引き出しからタバコとライターを取り出す。
 最初の煙を美味そうに吐き出すと、親方はつづけた。
「だけど、この仕事がやりてえ、って思わなきゃいけない。オマエが腹を決めて、配管の仕事で生きていきたい、と思ってくれるのが、俺にとっちゃあ一番良かったんだが」
「す、すみません」
 クビ、だろうか?
「謝るこたあはねえ。二番目にいいのは、これで生きていく! って決めることだ。早いとこ、そのアイティーなんとかの学校を決めてこい。専門学校とかあるんだろ? それとも夜間にでも通って大検とるか? 学校に行く日は、五時であがっていい。配管の仕事は、とりあえず生きていくための緊急避難にしとけ」
 思いもしなかった親方の言葉だった。
 ボクを馬車馬の代わりくらいにしか思っていなかったはずなのに。
「ありがとうございます」
 気が付くと、ボクは立ったまま頭を深々と下げていた。
 入学式や卒業式などで、決められた手順通りに頭を下げることはよくあった。
 しかし、知らず知らずに、心の底から、下げたと自分が気がつく間もなく頭を垂れたのは、生まれて初めてだった。
「一番いけねえのはなあ、生きていくために仕方なくダラダラ仕事をすることだ」
 雨が叩きつけられる窓を見ながら、親方は誰ともなくそう呟くと、吸い終えたタバコのフィルターを灰皿に押し付けた。

 その日の夜、ちょっと逡巡した後、思い切って桜子の家へ電話を入れた。
 ケータイへ直接電話を入れれば早かったのだが、高校を退学になった後、自棄になっていたボクはアドレス帳を捨ててしまっていたのだ。
 幸い、入学時のクラスメイト帳に、桜子の家の番号は残っていた。
 運良く、桜子が直接電話を取ってくれた。
 今週末、パショーでデートする時間の確認をした。
 風呂からあがったばかりだという桜子は、いつになく饒舌で、ボクがいなくなってからの学校の出来事を、おもしろおかしく話してくれた。
「なんかすごく楽しそうだなあ。酔ってるの?」
「まさかあ」
 彼女は笑いながら答えた。
「でもすごく楽しそうだよ」
「そりゃあ、楽しいに決まってるじゃない」
「どうして?」
「男の子から、デートのお誘いの、確認の電話が改めてくればさ、女の子は誰だって嬉しいんじゃないの」
「そ、そうかな」
「そうよ」
「あの、ありがとな、石田」
「いえいえ、どういたしまして」
 何に対してお礼を言ったのか、自分でも判然としなかったが、桜子はあっさりと受け取ってくれた。
「こんなこと女に言うの生まれて初めてだけど、俺、お前のこと好きだよ。すごく魅力的な女性だって思う」
「あら、ありがとう、なんだかますます嬉しい気分になってきたわ」
「冗談じゃないぞ。ホントだぞ」
 ボクは念押しした。
「わかってる。だけど誤解してるかもしれないよ。私はただ三百円であなたの自由を拘束してただけの性悪女かも」
「わかるんだ、俺、今なら。本当に心配してくれる人と、ただ心配してくれるだけの人のことが。どっちが良い悪いなんて贅沢言っちゃいけないんだろうけど、自分を削って人のために何かやることがどれほど大変か、今はわかる」
「フフフフ、あばたもえくぼってやつ?」
 桜子は冗談めかしてとぼけた。
「まあいいわ。じゃあ、日曜日にね」
「ああ」
 桜子は、なんだか照れたように電話を切った。
 告白したほうのボクは、自分でも意外で仕方ないが、全然照れてなかったのだけど。
 そう言えば、お互い私服で会うのは初めてだ。
 何を着ていこう。
 桜子は、どんな服で来るのだろう。
 受話器を置くと、居間からエプロン姿の父が顔を出した。
「長かったな、電話」
「ああ、父さん。俺、今度情報技術の学校に通うから、資料調べに街へ出るよ」
 父はキョトンとした顔をした。
「そ、そうか」
 ボクは笑顔でつづけた。
「父さんもぼちぼち再就職先を探したらどう?」
「そ、そうかな。やっぱりそろそろ探したほうがいいかな」
 エプロンの前掛けに両手を突っ込みながら、父はソワソワと返事する。
「そうだよ。週末一緒に街へ出よう。俺は昼から女の子とデートだからそこで別れるけど」
「お、なんだ、ケンは女の子とデートか」
 父は笑顔になった。薄笑いではない、影のない父の笑顔を見るのは久しぶりだった。
「よかったらそのうち、父さんに紹介してくれな。そうだな、ぼちぼちやらなきゃいかんな。うん、父さんだって、まだ十分やれるんだ」
 父はブツブツ呟きながら居間へ戻っていった。
 ボクは、なんだかワクワクしてきた。