三百円の援助交際

3、涙
 真冬のある日、下水管補修工事の依頼があったのは、ボクの通っていた高校からだった。
 今にも雨が降り出しそうな曇天の下、凍えるような寒さの中、中庭の浄化槽から下水管を掘り返し始める。
 親方が、小型の重機で大雑把に掘った後、ボクがスコップで配管の回りを綺麗に掘りなおしていく。
 下水管は地下一.五メートルほどのところに埋まっていた。
 穴に入っていると、顎から上しか地面には出ない。
 間もなく、クラスの女の子たちがボクに気がついた。
「なにやってるの、西村くん?」
「仕事だよ」
 ボクはぶっきら棒に答えた。
「へえ、えらいね」
「すごいね」
「頑張ってね」
 クラスの女の子たちは、ボクを励ました後、笑いさざめき合いながら去っていった。
 ボクの存在は、すぐクラス中の知るところとなった。
 男友達連中は、とっかえひっかえボクのところへやってきた。
「頑張れよ」
「俺も学校なんか辞めてえ」
「給料いくら?」
 みな話すこと、聞くことはだいたい同じだ。
 親に食べさせてもらい、着させてもらい、学校に通わせてもらう。自分も通っていた頃には思いもしなかったが、皆の顔がアイスを舐める幼稚園児のように子どもっぽく、甘ったるく見えた。そして、憎かった。
 憎かったが、無視することも、あっちへ行けと追い払うこともできない。
 そんなことをすれば、傷つくのは自分だ。
 昼を回ると、ポツリポツリと雨が落ちてきて、やがて本降りとなった。
 ボクはレインコートを着込んだ。
 ビニールの生地を叩く雨音が、バチバチとやかましい。
 世界史の石黒が、「頑張って、西村くん」と校舎と校舎を結ぶ通路から、ボクに励ましの言葉を投げた。
 雨に打たれるの嫌なのか、そばには来なかった。
 掘り返した土が雨に濡れ、周囲はグチャグチャだ。
 ボクの長靴にも泥が張り付き、歩くのにもひと苦労。
 石黒のお洒落な皮製のパンプスでは、ここまで来いというほうが無茶に違いない。
 雨が本降りになって以降、元クラスメイトたちも来なくなった。
 だから、遠くから、応援してくれる。
 誰も彼もが、ボクを応援してくれる。
 遠くから。


 夕方四時。
 雨足はますます強くなり、周囲は霧がかかったように白く見え始めた。
 冬の落日は早く、長靴の中の指先や、ゴム手袋の中の指先は凍えるように冷たい。
 直径十五センチ、長さ四メートルのビニールパイプ製下水管の片端を、ボクは穴の中、右肩に担いで立っていた。
 反対側の先では、親方がしゃがみ込んで、角度を調整しながら接管しようとしている。
「ボケッとすんなッ! もうちょっとそっち上げろ!」
 外仕事をする人間で、雨が好きなやつなんていやしない。
 親方の気分も、いつにも増して荒れている。
 ボクは両手を上げて、ネズミ色のビニールパイプを頭上に掲げた。
 レインコートの袖口から、氷のように冷たい雨が流れ込んでくる。
「なに、してるの?」
 雨の中、ふいに頭の上から声がふってきた。
 頭上に掲げたビニールパイプが動かないよう注意しながら、頭だけを右に回す。
 石田桜子が、ボクのすぐ隣に来ていた。
 ボクの頭のところにある地面にしゃがみ込み、傘をさしている。
 紺色の制服の上に、暖かそうなクリーム色のハーフコートを着ていた。
 赤いリボンのついた黒い革靴が、泥で茶色に汚れている。
 スカートの隙間から、白い太ももと、同じく白い下着がチラリと見えた。
「配管工」
 ボクはぶっきらぼうに答えた。
「ふ〜ん」
 桜子は、さして興味なさそうに頷いた。
「今日はマスク要らないのか?」
「雨降ってるから湿気あるし」
 それはそうだ。
「あのさ、石田」
「なに?」
「パンツ、見えてるぞ」
 桜子はかっと頬を赤くすると、飛び上がるように急いで立ち上がった。両手でスカートの前を押さえる。
 恥ずかしいのか、僕と視線を合わせようとせず、あさってのほうを向いている。
 ボクは、同時に襲ってきた二つの感情に困惑していた。
 ひとつは、桜子に早く去って欲しいという感情。
 認めたくはないが、認めざるを得ない。ボクはみじめな境遇だ。
 将来、なにがしか立派な仕事が出来るだろう、と漠然と考えていたボクの力など、両親という庇護を無くせば、月十万円を手にするのにもヒーヒー言わなければならない貧弱さだった。
 そんな惨めで、貧弱で、カッコ悪い、しかし本当の姿を、桜子に見られたくなかった。
 もうひとつの感情は、彼女にここへいて欲しい、という欲求だった。
 今となってはもう戻れない、雲の上の話となってしまった普通の学校生活。そのエリアにいる桜子。彼女とのつながりだけが、ボクにとって最後の気持ちの拠り所と思えた。
 ボクは今、不可抗力で配管工の見習いをしているが、また機会さえあれば、桜子の住む世界、かつて二人でデートした世界へ戻れる。
 そう、戻れる、はずだ。彼女とのつながりさえ持っていれば。
 もう三百円は要らない。いや、こちらから三百円を払う。そうすれば……。
(いや)
 塩化ビニールパイプを頭の上に掲げたまま、軽く首を横にふった。
 そんなことはないのだ。ボクはもう、配管工として生きていくしかないのだ。
 生き馬の目を抜く受験戦争において、ここ数ヶ月勉強とは無縁で過ごしたロスは致命的だ。
 それに父に再起する意思がない以上、非力なボク一人でいったい何ができよう。
 桜子との関係があろうとあるまいと、もうどうしようもないことなのだ。
 陳腐な言い方をすれば、今の生き方こそが、神がボクに与えた運命なのだ。
 心の奥底でそう考えているからこそ、ボクはとっさに「パンツが見えてる」などとデリカシーのないことを言ったに違いない。
 呆れた桜子は、ボクのそばから去るだろう。
 仕方ない。それがボクの選んだ道なのだから。
 不意に、レインコートを打つ雨音が途絶えた。
 桜子が、穴の上からボクに傘を差し出していた。
 今度はスカートをしっかりと足で挟み込んでいる。
 少し動いたせいで、黒い革靴にはすっかり水が入り、白い靴下にも茶色い染みができていた。
「濡れるぞ、石田」
 ひとつしかない傘を差し出しているせいで、桜子の背中に雨が直接落ちている。
「俺はレインコート着てるから平気だから。ちゃんと自分に傘差せよ」
「そう」
 桜子は頷くと、素直に傘を引っ込めた。
 なぜ彼女は去らないのだろう?
 聞いてみようと思ったが、口から出たのはまったく別の言葉だった。
「今度また、デートしないか?」
 女の子を自分から誘うのは生まれて初めてだ。顔から火が出そうだったが、平静を装った。
「断わるわ」
 きっぱりと、誤解のしようのない返事だった。
 じゃあしょうがない、と以前のボクならあっさり諦めただろう。
 しかし、今は違った。
「エルムのコーヒー代、今度は俺が持つから」
 再交渉を試みる。
 粘る理由は簡単だ。桜子に、もっとここへいて欲しいのだ。
「断わるわ」
 再び素っ気ない拒否だった。
「どうして?」
 以前なら、絶対にこんな質問はしない。
“あなたのこと、好みじゃないから”などと、自分を否定されるのが怖かったのだ。
 しかし、今は聞いてしまう。聞くことができる。
「私、配管工と付き合うつもりはないの」
 桜子の答えは、ボクの心に突き刺さった。
「どういう人と付き合いたいんだ?」
 それでもなお、質問を続ける。
 ボクはいったいどうしてしまったというのだろう?
「ちゃんと高校出て、キチンとした大学へ入って、安定した会社に勤めることができそうな人」
 桜子の希望のタイプと、ボクはもう頭から違ってしまっていた。
 以前は、そう見えていたのかも知れないけれど。
 だけど、だけどまだ、ボクは彼女と喋りたかった。
 ボクは話の切り口を変えた。
「ひとつだけ、聞いてもいいか?」
「うん」
「なんで三百円だったんだ?」
 ずっと聞きたかったことだ。
 なぜ三百円だったのだろう。百円でも五百円でも良さそうなのに。
「だって私のお小遣い、毎月五千円だもの」
 彼女の言わんとするところが、最初は分からなかった。しかし、考えてみる。
 デート代の三百円。
 コーヒー代一杯百八十円を、二杯で三百六十円。
 合わせて六百六十円を、桜子は一回のデートで使っていたことになる。
 デートは週に一、二回。
 月七回のデートで、四千六百二十円。それ以上だと足が出る。
 桜子は小遣いのほぼすべてを、ボクとのデートに注ぎ込んでいたわけだ。
「石田、聞いてくれッ!」
 突如ボクが叫んだので、レインコートのフードが揺れ、雨が筋を作って襟元に流れ込んだ。冷たい。
 桜子も驚いて、一瞬腰を浮かしかけた。
 前で作業していた親方も、チラリとこちらを振り返った。が、何も言わず黙々と作業を続けた。
「聞いてくれ、俺、将来はIT関係の仕事に就く。今すぐは無理だけど、配管の仕事しながら学校に通って、IT関係の会社に就職するッ!」
 叫びながら、ボクは泣いていた。
 冷たい雨と、熱い涙が、目がしらで入り混じる。
「ふ〜ん、じゃあ、デートしてもいいわ」
 頭の上から、相変わらず感情のない桜子の声がふってきた。
「今度のデート代はそっち持ちよ」
「駅前の“パショー”に行って、二人でパスタランチを食べよう。大丈夫、安いけど一応給料もらってるんだ」
「今度は楽しそうね」
「安いは余計だ」
 ボソリと囁いた親方の呟きが、騒々しい雨音を貫いて、妙にはっきりと聞こえてきた。